ヘルスリテラシー[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第15話)]

ありし日の亡妻、横須賀佐島天神島ツーショット

「在りし日の亡妻と(横須賀佐島の天神島で)。この笑顔を見ると自分の無知が悔やまれる」

亡妻は乳がんが転移して脳腫瘍になった

 足が不自由になり、気持ちもふさぎ込んで床についてしまった妻の症状を見ていてボクは心配が募り、妻の縁者にあたる共通の知人に相談した。  その人は言った。「心因性のものではなく、器質的なものかもしれないよ」。器質的ということは何かはっきりした病変があり、症状はそれと因果関係があるということだ。  ボクにも油断があった。この忠告を聞き逃してしまった。そのときすぐに行動を起こし、首に縄を付けてでも病院に連れていけば、まだ間に合ったかもしれないし、その後の展開は変わったかもしれないが、それをしなかった。  妻の症状は一向に良くならない。それでも心因性だと思い込んでいたので、八王子の精神科の病院に部屋が空いていることを知り、入院させた。  そこの先生の診断も前回書いた医家夫人のそれとあまり変わらないので、1か月くらい預けたが、突然その病院から、「大きな病院に転院させた方がいい」と電話があった。  忘れもしない92年4月12日、府中の病院に転院したところ、その日のうちに脳腫瘍だとわかり、乳癌が転移したのだとして、すぐ手術が施された。そして余命は十数週間だと告げられた。  ボクは脳天に鉄槌を食らったような衝撃を受けた。妻の病院嫌いに引き連られたこと、医家夫人の言葉を信じたこと、ボク自身無知のうえ優柔不断だったこと。  悔やんでも悔やみきれない不手際で先生からは「何故こんな状態になるまで放っておいたのか」と厳しく叱責された。妻には病名や余命のことは隠し通した。それから、2年4か月後、妻は他界した。

亡き妻を反面教師として

 こうした体験を持っていたからボクは1998年、慈恵医大の糖尿科を紹介されて、それ以来きちんと病院に通った。  何か体調に変異が現れたらすぐ対応できるだろう、たとえ何らかのガンが発見されても早期ならば打つ手はあるだろうと思っていた。医療の進歩もあって妻の時代とはガンに対する恐怖感も違ってきてはいた。  その結果、ガンとは異なり心筋梗塞の一歩手前の狭心症段階で病変に気づき、心臓バイパス手術の成功もあってこうして闘病記を書いている。  昨今、かかりつけ医を持とうという声が強くなってきた。いいことだと思う。ボクらにかかりつけ医がいたら、妻の不幸は回避できたかもしれない。  たとえかかりつけ医の手に負えない難病であっても、専門医を紹介してくれるだろう。今はソフトハードの両面で医療インフラの整備も進んできた。  その点、今のボクはなんでも慈恵医大病院に頼っているきらいがる。それがいいのかどうか。大学病院は難病の人向けではないかと思う時もある。地理的にも時間的にも普段はかかりつけのお医者さんがいればそれで充分ということが少なくない。  いずれにしても適切な医療機関とよき関係を構築しておくことは健康寿命を延ばす前提だと考えている。  こうした体験からボクは連れ合いにも健康診断の励行とか体に異常を感じたときには必ず医療機関に相談することを勧めている。幸い、連れ合いはボクの忠告をよく聞いており、子供に関しても素人の生兵法を避けるようにしている。  病院が高齢者の待合みたいになるのも困りものだが、医師という専門家のアドバイスは軽視されるべきではない。連れ合いはさすがに医者の娘で勘所はわきまえている様だ。  大病を経験したせいか、ヘルスリテラシー(健康や病気に関するきちんとした知識)ほど大切なものはないと信じている。週刊誌の医療情報には怪しげなものもあるが、真贋を見抜く勉強はした方がいい。 「知者は惑わず」はいつの世も正しい。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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