看護婦さんとの交流[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第17話)]

儀武先生

「医療協同作業の当事者たち・執刀医の儀武先生・心リハ室のKさん・Iさんと」

採血あきらめた素直な看護婦さん

 話が前後することになるが、今回も看護婦さん関連である。  入院生活の一日は体重や血圧の測定から始まるが、折に触れて採血がある。  ボクの採血は右手の静脈から行われるが、その血管が細くて、しかも深いところにあり、ふつうの注射針では刺さらない。  それでいつもトンボという細い針を使うのだが、一発でターゲットの血管を仕留めることはめったにない。血圧が低いせいか、血管に張りがなく、見つけても逃げてしまうらしい。  その日の看護婦さんは見るからに若い看護婦さんだった。採血の段取り通り、アルコール消毒をしてトンボを刺し込むのだが、お目当ての血管には届かない。  3~4回トライしても血は採れなかった。「だめだ」といってため息をついた後、「ベテランを呼んで来ます」と言ってあきらめた。ボクは「1回でボクの採血ができたら名人ですよ」と慰めたが、素直ないい看護婦さんになるだろうと思った。

看護婦さんを激励

 Kさんという看護婦さんがいた。この人はTさんという看護婦さんと年齢や印象が似ていて、ボクも「どっちかな」と思うことがあった。  二人とも「似ている」という自覚があるらしく、「よく間違われます」と言っていた。Kさんはよく立ち話に付き合ってくれた。  NAさんというベテランの看護婦さんは優しかった。食事の制限が厳しいとこぼすと、同情してくれた。ついその懐の深さに甘えそうになった。  退院後およそ3週間の深夜、ボクは家で激しい吐き気に襲われ、タクシーで駆けつけ、救急部のお世話になったことがある。診察室の前で待っているとき、先方の薬剤部のところにNAさんの姿を発見した。 「NAさん、今日は夜勤ですか」と遠くから声をかけると、「今時どうしてこんなところに」と聞き返えされた。事情を説明し、「NAさんも遅くまで大変ですね、頑張ってください」などと急病人が看護婦さんを激励した。NAさんの目がいささかくぼんで見えた。

「病気を診ずして病人を診る」心リハスタッフ

 心疾患患者には心臓リハビリ(心リハ)というコースが待っている。心リハとはどういうものかについては別に触れたいと思うが、ここの理学療法士や看護婦さんもやさしく優秀だった。  Oさんという人は理学療法士といっても女性である。いつも大きなマスクをつけていて、そのせいか目に力がある。  ボクはある程度リハビリが進んだ段階で、CPX(心肺運動負荷試験)のテストを受けることになった。手足の筋力や呼吸量などを、心臓外科医師の立ち合いのもとにチェックするのである。  ベッドの上に寝かされて足を持ち上げるテストがあった。そのときのOさんの声にびっくりした。腹の底から出たかと思う大声で「もっと上げて、もっと、もっと、もっとお」というのである。  小柄のわりに大きな声。人は見かけによらないと思った。呼吸量のテストのときには鼻と口にマスクを当てるのだが、これがうまくいかない。位置がキチンと決まらない。  Oさん曰く「鼻が高いのよね」。生まれてこの方、頭(ず)が高いといわれても鼻が高いと言われたことはない。Oさんは目ぢからだけではなく口の力も相当なものだと思った。  心リハではKさん、Iさん、Tさんという看護婦さんにお世話になった。心リハ室は5台の自転車こぎ(エルゴメーター)が並んでいた。  5人の患者が20分間、この自転車をこいで、その最中に心電図を撮ったり、血圧を測ったりする。KさんもIさん達も患者がこいでいる間、問診するのである。体調や食べ物、運動量などについて細かく聞いている。  一人一人の前回までのリハビリ内容もよく覚えており、継続性の大切さを訴える。慈恵医大を創った高木兼寛学祖の理念「病気を診ずして病人を診よ」が生きていると思った。  看護婦さんとの交流も多くは懐かしい思い出になった。しかし、その中でも生き生きと心に残っているやり取りがある。退院後しばらくして心臓外科病棟を訪れ、廊下で看護婦さんのグループと会った時のことである。  皆さん、ボクを覚えてくれていて、「この病棟には絶対戻ったらいけませんよ」「だけど時々遊びに来てくださいね」と口をそろえて言った。患者の悩み・苦しみと共感するのが看護の心という意味がよく分かった。 「医療とは医看患の協同作業である」とは良く言ったものだ。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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