世界文化遺産から読み解く世界史【第12回:謎の空中都市――マチュ・ピチュ】

マチュ・ピチュ(加工)

マチュ・ピチュ

1911年に発見された空中都市

 マチュ・ピチュは標高2400メートルのアンデス山中にあります。13世紀から16世紀にかけてペルー、エクアドル、チリ一帯に繁栄したインカ帝国の都市です。山の峰の上に開けているような景観からよく〝空中都市〟と呼ばれていますが、マチュ・ピチュという名前には〝年老いた峰〟という意味があります。  住居や神殿が、狭い石畳の道や階段で結ばれて、中央には大広場があり、周囲には高さ約5メートルの石組みの城壁がめぐらされています。斜面には段々畑がつくられ、ジャガイモ、トウモロコシ、コカなどが栽培されていたようです。高い山の中にもかかわらず、水道もつくられていました。  マチュ・ピチュには、インカ帝国以前の遺跡も残されていますが、現在のような都市は、15世紀の中頃に建設され、その後、約100年でこの都市は廃墟になったと考えられています。  この遺跡が再び発見されたのは、1911年、アメリカの探検家・ハイラム・ビンガムによってでした。この都市に至る道は、険しい渓谷の中を通る南からの一本道しかなく、東・西・北は切り立った崖になっています。

マチュ・ピチュはどのような目的でつくられたのか

 いったいこの都市がどのような目的でつくられたのかは、さまざまな憶測がなされていますが、はっきりとしたことはわかっていません。  マチュ・ピチュの頂上には、太陽の神殿があり、インティワタナ(太陽をつなぎとめる石)と呼ばれる石が置かれています。それによって夏至と冬至がわかり、太陽を観測していたことがわかっています。インカの人々は、進んだ天文学を持っていました。  また、インカの神は太陽神でもあり、ここがそうした信仰の聖地だったのではないかという考えもあるのですが、私自身の訪れた印象からは、聖地であるようには思われませんでした。やはりここは基本的には、外敵からの逃避、防御を目的としてつくられた山岳都市であったのだろうと考えます。  インカ帝国は1533年にスペインによって征服されました。その頃、マチュ・ピチュからインカの人々の姿は消えて、やがて人々の記憶からも消えていったのです。  中南米の文化遺産は、スペインなどの侵略と植民地化によって、破壊されてしまったものが少なくないのですが、歴史の大きな流れは、大航海時代という、ヨーロッパの世界進出の時代を迎えていました。ヨーロッパの物質文明、特に銃や大型船などの輸送技術が、世界を変えていったのです。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本文化のすごさがわかる日本の美仏50選』ほか多数。
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