子供が見舞いに来た[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第20話)]

淳ちゃん手紙

「ボクの後半生を決めた手紙。短いが、人柄が出ていた」

子どもの存在感


 4月17日の日曜日、ひょっこり子供が連れ合いとともにやって来た。子供は中三だが、すっかり大人びてきた。ボクは「よく来てくれたね」と言ったが、会話が弾むわけではない。

 しかし、普段は一つ屋根(といってもマンションだが)の下にいるので、三人揃うだけで日常感が出てくる。

 23年前、ボクは先の妻を亡くした。以来、しばらく男やもめを決め込んでいた。ガンで闘病していた妻とは2年半、ターミナルケアを共有した。

 妻が自分の実家での闘病を希望したので、妻の母と弟妹、それとボクが看病・介護にあたった。それはそれで思い出が尽きない毎日だったが、治療の甲斐なく妻は逝ってしまった。

 心の空虚をなかなか埋めきれなかったボクは、そのまま妻無き妻の実家で3年、お世話になった。幸い、妻の実家の人々、実の弟妹、友人たちの配慮と励ましもあって、日常生活はなに不自由なく過ごすことができた。

 それまでボクは教育、就職、結婚という人生の重大事にあたっては自分の意思を全うしてきた。大学入試では一浪はしたが、希望の大学に入ったし、就職に関しても、「これからはテレビだろう」と私淑していた人が社長をしているテレビ局に就職した。

 結婚も、これ以上はないという女性と巡り合い、世帯を持つことができた。そこまではいうことなしの人生だったが、妻が早逝した。

 妻を亡くして6~7年経った頃、ボクも還暦を過ぎていたが、将来の事を考える余裕が出てきた。そして人生上やり残したことといえば子育てだったということに気が付いた。

 周囲の弟妹たちを見ていて、子育ては苦労はあるもののいいものだ、と思うようになっていた。

子育て願望


 2003年4月、とある若い友人と寿司屋で会食した。彼もボクを支えてくれた一人である。彼はIT関係の起業家でボクがネットビジネスに関わっていた時、知り合いになった。

 そのうち大森にある彼の家に呼ばれていくようになり、家族ぐるみの付き合いが始まった。といってもボクの方はいつも一人なのだが……。

 その彼が寿司をつまみながら聞いてきた。「境さんは再婚するつもりはあるの?」
「無論あるよ」
「何か条件的なものはどうなの。例えば性格とか年恰好とか……」
「性格は飛びすぎてなければそれでいいし、年もあんまり気にしないな。死んだかみさんはボクより5歳下でちょうどいいと思ったが、今は上でも下でもいい」
「年齢差は」
「それも気にしないよ。ただボクはこれまで子育てということをしたことがない。子育てはしてみたいと思っているんだよ。だから子供のいる人がいいな」

 そう言ってみたけれどそれはそれで難しい条件だった。しかし、若い友人は何か心当たりがあるようだった。
 数日後、彼から電話があった。

「30才そこそこで小さな男の子がいる女性がいるんだけど、会ってみる?」
「うん、いいよ。その男の子はいくつなの?」
「一つか二つだよ」
「ちょうどいいね」

子連れデートの積み重ね


 それから間をおかず、友人と彼女とボクは帝国ホテルで会い、息が合いそうだと見た友人は「用事がある」とか言って、先に姿を消した。

 ボクは彼女を近くの日本料理店に誘った。吉祥寺にある女子大卒ということだったが、この女子大とボクの出た大学はよく合ハイ(合同ハイキング)をしていた。

 彼女は1970年生まれ、実質的には31の年の差があった。この時の結論は「今度は子供と一緒に会おう」ということだった。

 旬日をおかないうちに品川のホテルで子供連れの彼女と会った。子供は2歳前だったが、利発そうな顔立ちでボクとすぐ打ち解け、手をつないでホテル内を歩いた。手が柔らかかった。

 子連れデートを何回か繰り返していたが、2004年1月、彼女から突然、思いがけない手紙が来たのである。

短い手紙だったが、ボクの将来を決めるものだった。信書の重みは長短ではない。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。





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