新しい家族ができた[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第21話)]
子どもと過ごす楽しさ
突然の手紙で、彼女は「北千住のマンションを出たい」と言ってきた。手紙は親権問題、父君の健康問題、経済的問題等に触れていたが、真摯かつ誠実なもので子供に対する愛情があふれていた。 ボクは当時、大田区仲池上のマンションに一人暮らしをしていた。部屋は2LDKで、二人が来てもスペース的にはゆとりがあった。 彼女とも子供ともうまくやれそうな感情を持ち始めていたので、「ボクのところに来たら」と応えた。二人はほどなくやってきた。 以来転居は何回かあったが、今日まで、三人の暮らしが続くのである。 彼女は分別盛りだし、ボクも自分の立場をわきまえているので、お互い熱くなりすぎず、クールになりすぎず、淡々と相手を理解する度量を示しあってきた。 しかし、子供は別である。とても懐いてくれて子供とおしゃべりすることがこんなに楽しいこととは知らなかった。 2005年には月島の方へ引っ越したが、幼稚園、小学校低学年のころ、子供はボクの帰りを待ちかねていて、ふたりでテレビゲームや、狭いリビングルームでのドッジボールに熱中した。 かくれんぼをし、カーテンの陰に隠れては、カーテンレールを壊したりした。食後も同様で、ボクは「スーパーマリオ」や「ワンピース」を知った。 そのころ会社は買収騒ぎに巻き込まれていて、神経をすり減らすことが多かったが、子供と遊ぶことで疲れは吹っ飛んだ。「減父」
小学校高学年になると、塾通いで時間を取られたり、受験勉強で家庭教師が出入りしたりで子供と話す機会はぐっと減った。 中学校に入ってからは、むしろお互いに距離感を保つようになった。自立心も出てきたようだ。あまりオーバーコミットメントはしないようにした。 だからといって子供と没交渉になったわけではない。母親がいないときには一緒にピザの出前などを注文する。そのとき、ネットでの注文の仕方が子供の方が手際がいいので、改めて成長ぶりに驚いたりする。 厳父慈母という。日本人の伝統的な家庭教育の原点だ。父性は厳しく、従って近寄りがたい。母性は慈しみに満ちている。母性と子供は、お互い分身みたいに認識している。 だから寄り添う関係だ。ボクは保護者としての責任を放棄したこともなければ、するつもりもない。 しかし、父性を振り回そうともしない。父親面することもない。その点では厳父ならぬ「減父」である。子供とは62才差の友達くらいに思っている。 連れ合いと子供は本当に仲がいい。ボクはそれを見てうれしくもなるし、うらやましくもなる。スッピンで学校に行くわよ
何よりほほえましいのは、子供が母親を誇りに思っていることである。母親は学校に出向くときはいつも、過不足のない化粧をし、メガネをコンタクトレンズに替え、いでたちも一応ブランド品できちっと決める。 ロングヘアにもしっかり櫛目を入れていく。古臭いメガネをかけ、ホームウエアをザクッと着こみ、ロングヘアを後頭部に束ねただけの在宅時とは大違いである。 そういうところが子供の誇りとか自慢のタネになっており、「お前のママはきれいだな」などと言われて、気を良くしているらしい。 子供がいうことを聞かないときなど、母親は「そんなに聞き分けが悪いのなら、ママはスッピンで学校に行くよ」と脅しをかける。子供はこれに弱いらしい。たちまち従順になるのである。 今はそんな家族だから、病室に二人が来ると話が盛り上がらなくても、ボクはこの上なく安堵するのである。それぞれ31づつ年の差がある。 世代の世という字は「三十」を意味するというが、その意味では三世代同居のような家族だが、それでも「家族はいいな」と思う。 子連れ再婚家庭をステップファミリーといい、一般的には難しい問題が多いというが、我が家にはそうした気配はない。ステップファミリーでも「子はかすがい」だ。 Familyという単語をアルファベッドで分解すると、「Father and mother I love you」になるという。言い得て妙だ。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。ハッシュタグ
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