旧石器ハテナ館が面白い(4)――安住の地を求め辿りついた日本人の祖先は健脚

住居状遺構から南西200mの所で出土した黒曜石の原石9点(『館報尖頭器』第16号)

住居状遺構から南西200mの所で出土した黒曜石の原石9点(『館報尖頭器』第16号より)

旧石器人の健脚


 旧石器時代の次の時代の縄文時代になると、伊豆七島の神津島産の黒曜石で作られた矢じりなどの石器が発見される。丸木舟で海を渡っていたのだ。

 縄文人といい、その前の時代の旧石器時代人といい、私たちが想像する以上に行動半径は広い。

 人類の祖先はアフリカで生まれたと言われており、その人々は安住の地を求め、幾度となく代替わりしながら歩き続け、その頃は陸続きであった日本列島にたどり着いた。現代人とは比べようのない健脚なのである。

 そのように考えれば、長野県八ヶ岳の麦草峠や星が塔から神奈川県相模原市の田名向原遺跡までの約176~180kmの道のりは、彼らにとっては日常の営みだったのであろう。

 さて、日本の旧石器時代といえば、最も重要な遺跡が岩宿遺跡(群馬県みどり市)である。

 この岩宿遺跡に関しては、【旧石器時代「岩宿遺跡」発見の人間模様】と題して、以前にこのニュースサイトで連載したことがある。詳しくはそれをご覧いただきたい。

 アマチュアの考古学研究者・相沢忠洋(あいざわただひろ、1926~1989年)は、先の大戦から復員し納豆売りなどの行商で生計を立てながら石器の発掘を行っていた。

 戦後の翌年、昭和21(1946)年11月に、地元の赤城山山麓、群馬県新田郡笠懸村の切り通しの赤土(関東ローム層)の崖の中から黒曜石の石器を3点発見する。さらに昭和24年7月、同所の関東ローム層中に包含されていた黒曜石製の槍先型尖頭器(石槍に用いられる打製石器)を発見した。

 これは、火山灰が堆積した赤土(年代的には後期旧石器時代に相当)には石器などの遺物はないという明治以来の考古学界、地質学界の通念を打ち破る画期的な発見であった。

 当時の考え方は、日本列島で火山の噴火が活発な1万数千年前の旧石器時代には人が住めず、人々の生活は縄文時代から始まったという「強い思い込み」が学界を支配していた。

戦後も考古学界の「強い思い込み」は続いた


 ちなみに、戦後もその強い思い込みを維持し続けた代表的な人物に山内清男(やまのうちすがお、東京大学講師、成城大学教授、1902年~1970年)がいる。

 彼は、縄文土器の型式をもとに年代分類を行う編年(へんねん)研究で業績を上げたが、日本列島に旧石器時代はなく、縄文時代の始まりもせいぜい3000年ほど前として、自らの学説に異様に固執した。前述の放射性炭素測定法による科学的な年代測定も頑なに否定して、その尋常ならざる様子についてはいずれ紹介したいと思う。

 相沢忠洋が旧石器を発見した以降は、各地で続々と旧石器が発掘されたが、上述した山内清男が長老として君臨し、学界の学閥や徒弟制度、また功名争いがあり、さらに平成12(2000)年の旧石器捏造事件もあり、わが国の考古学界の発展は順風とは言えなかった。

 しかし、放射性炭素年代測定法などが一般化し科学的研究が進められ、日本旧石器学会によれば、わが国の旧石器時代の遺跡は現在、1万か所を超えるという。(続く)

(文責=育鵬社編集部M)




関連記事