ナイチンゲールの申し子たち[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第35話)]
創業の志が伝わる
入院中に院内を巡っていて感じたことが二つあった。一つは院内の配置がなかなかにわかりにくいのである。 病院の成長にあわせて建物をつぎ足しつぎ足ししていったのだろう。それはそれでこの病院が大きくなってきた足跡である。 現在も2020年に向けて新しく外来棟を建築中である。もう一つは各所の廊下などに、病院の歩みを書き留めた解説看板があり、病院の歴史がよく分かったことである。 「病気を診ずして病人を診よ」という高木兼寛学祖の理念もいろんなところに掲示してある。創業の志と先人たちの歩みを大切にする点に共感した。 そうした中で気になった看板があった。ナイチンゲールの言葉として看護の精神を述べたものである。そこには「患者の生命力の消耗を最小にする」とあった。ナイチンゲール精神
後に慈恵医大病院になる有志共立東京病院を創った高木学祖は明治18年、日本初の看護婦養成学校も創った。 高木は明治の初頭、イギリスのセントトーマス医学校に留学中、付属していた看護婦訓練学校「ナイチンゲールスクール」を訪ねては看護教育の重要さを体験した。その名の通り、近代看護学を確立したナイチンゲールが教えていた学校である。 高木とナイチンゲールが直接会ったか否かは記録がないが、ナイチンゲールの精神はしっかり学び、帰国にあたって『ハンドブック・オブ・ナーシング』を持ち帰った。 この本自体はナイチンゲールその人の著作ではないが、その精神に立ったテキストである。高木の創った看護婦養成学校ではこのテキストに基づいて看護教育がなされた。「医師と看護婦は車の両輪」というもう一つの高木理念の実践的表現である。 時代は下って、平成3年、慈恵医大医学部に看護学科が開設された。開設に当った阿部正和学長は、看護におけるサイエンスとアートの重要さを説き、「看護の心とは患者の悩みや苦しみに共感する心、患者にいたわりの手が自然に出る心、患者に奉仕する心」(「阿部正和著作・講演集」)と定義した。 ボクは入院中、30人ほどの看護スタッフと打ち解けて過ごすことができたが、その背景にはこうした慈恵看護師の看護史があった。 退院してナイチンゲールの精神や業績などについて調べてみた。すると病院で見た「患者の生命力の消耗を最小にする」という言葉には前段があった。 「看護とは新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また、食事内容を適切に選択し、適切に与えること――こういったことのすべてを患者の生命力の消耗を最小にするよう整えること」。 これはナイチンゲールその人が書いた『看護覚え書』(ノーツ・オブ・ナーシング)に出てくる。「生命力の消耗を最小にする」という言葉にナーシング(看護)の尊さを感じた。 あわせてナイチンゲールは「天の与えた貴い生命は……看護師の手中に委ねられる。彼女は正確で綿密でしかも機敏に(患者を)観察できなくてはならない」と書いている。看護は聖職
血圧を計ったり、薬を服ませたりするだけが「ナースのお仕事」ではない。その仕事はもっと奥深い。看護とは聖職そのものと言っていい。 JKなどと揶揄されるが女子高生のなりたい職業を尋ねると看護師は常に高いところにランクされている。「病いと闘っている人」の力になりたいという若い女性の心情が伝わって来る。 ボク自身、食欲不振・脱水症状等で無気力に陥った時もナイチンゲール精神を背景に看護と激励にあたってくれたナースの皆さんには頭が下がる思いである。 看護方針に「安全に手術が受けられるように整えてまいります。術前術後の合併症予防に努めてまいります」と書いたAさん、くどくどとした悩みを聞いてくれたベテランのNAさん、臥せて身動きが全くできないときに寝返りを手伝ってくれたNIさん……。本当に白衣の天使に見えた。 もちろん、看護の仕事は神経をすり減らすハードなもので、とても天使の仕事どころではないという人もいる。 でもだからこそ、患者はそこに天使を見るのである。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。ハッシュタグ
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