なぜ「あおり運転」トラブルが絶えないのか? 「16~80歳の日本人は“道徳”を学んでいない」のが原因!?

「あおり運転」死亡事故から2年経ったが……

 あおり運転トラブルが後を絶たない。  先日、茨城県守谷市の常磐自動車道で起きたあおり運転殴打事件で、会社役員の男が傷害容疑で逮捕された。  その数日後、大阪府堺市であおり運転を繰り返し、胸ぐらをつかむ暴行を加えたとして、今度は61歳の僧侶が書類送検されている。  あおり運転は、2017年6月に、東名高速道路で一家が乗ったワゴン車があおり運転で無理やり停止させられ、同乗していた二人の子供の目の前で夫妻が死亡した事故を契機に社会問題化した。事件から2年が経過したが、いまだ「あおり運転」をやめないドライバーには、あの事件が発したメッセージは届いていないようだ。  テレビや新聞では連日、この「あおり運転」トラブルが取り上げられている。この問題について評論家やコメンテーターは、ドライバーの心理について分析したり、ドライブレコーダーの設置や法律の整備の必要性を訴えたりしている。  その中でユニークだったのが、TBS「新・情報7daysニュースキャスター」(土曜夜10:00)。24日の放送で、安住紳一郎アナが「ここはやっぱり、たけしさんが推奨するように道徳の授業を激しくやるのがね、必要かもしれません」とキャスターのビートたけし氏に問いかけると、たけし氏が「本当だよ」と応じるなど、道徳教育の必要性を伝えていた。

小中学校で道徳の授業が教科化

 道徳教育については、「16~80歳の日本人は“教科としての道徳”を学んでいない」と、大人への道徳教育の必要性が言われている。以下、紹介する。 「特別の教科 道徳」は、2018年度から小学校で、2019年度から中学校で開始されました。これは、戦後初の出来事です。  こうした動きは、今の大人に、「子どもや若者たちの道徳意識が低下している」という意識があるからでしょう。もちろんいつの時代でも、大人は〝今どきの若者は……〞と嘆き続けてきたことは確かです。しかし近年は、特にインターネットの発達によって、あらためて道徳に注目が集まっているような気がします。  人間誰しも過ちを犯します。完全無欠な人間などこの世にいません。ところが、「一事が万事」とよく言いますが、1欠けただけで、9999まで否定されてしまうのが今の世の中です。不用意な発言をした有名人などが、全人格を否定されるかのようにインターネット上で炎上することが、毎日のように起こっています。直接顔を合わせることなく、匿名で自分の意見を発信できるからこそ、相手への罵詈雑言に歯止めがかからず、どんどん過激になっているのです。  もちろん学校という場も例外ではありません。「学校裏サイト」と呼ばれるネット上の掲示版に特定の生徒の悪口や誹謗・中傷を書き込んだりする行為や、コミュニケーションツールとして便利なLINEのグループによる集団いじめなどの、いわゆる「ネットいじめ」は、本当に深刻な問題です。  またネット内だけでなく、日常生活でも同様です。電車やバスの中で、スマートフォンの画面だけを見つめて、目の前に立っているお年寄りには一向に注意を向けないといった光景は、もはや日常茶飯事です。  こうしたことから、やはり学校できちんと道徳を教えなければならないという機運が高まったのでしょう。

本当に道徳が必要なのは?

 しかし、ふと立ち止まって考えてみてください。  本当に道徳教育が必要なのは、小中学生なのでしょうか。  このことを私に決定的に考えさせたのは、日本大学のアメリカンフットボール部の危険タックルをめぐる一連の騒動です。  日本中を騒がせたこの出来事は、2018年5月6日に行われた、日大フェニックスと関西学院大ファイターズとの定期戦で起きたものです。日大のディフェンスの選手が、ボールを投げ終えて無防備だった関学の選手に背後から激しくタックルし、全治3週間のけがをさせました。  関学側はチームの見解とともに謝罪を求める抗議文を日大に送付し、さらに記者会見を開きましたが、日大側は明確な回答をしません。そうした中、タックルをした選手自らが、記者クラブで会見を開き、「事実を明らかにするのが償いの一歩。深く反省しています」と述べたのです。  その上で、定期戦3日前に「やる気が足りない」などと指摘されて練習を外され、精神的に追い込まれていたと説明。試合前日にコーチを通じ、監督から「つぶせば出してやる」と伝えられたとし、指示を「けがをさせろ」の意味と解釈したことを明らかにしました。  この騒動の真実は、私には分かりません。しかし少なくとも、学生である「若者」がしっかりと自身の誤りを認め、多くの人の前で直接謝罪したことに対して、彼を教育すべき立場にある「大人」の方が逃げ続けたという印象を、私だけではなく多くの日本人は受けたのではないでしょうか。  こうして最初の問いに戻ります。  つまり、道徳教育が本当に必要なのは、教科化を推進した当の「大人」の方ではないか、ということです。

戦後失われた「生き方の軸」

 冒頭で、戦後初めて道徳が教科になったと言いました。  でも、皆さんの多くは疑問に思ったかもしれません。自分も学校で、「道徳」の授業を受けたような……と。実は、それは正式な教科ではありませんでした。  戦前は、今の道徳の前身にあたる「修身」という教科がありました。しかし、昭和20(1945)年に第二次世界大戦が終わり、敗れた日本がアメリカを中心とする連合国軍に占領されると、日本が二度と戦争を起こすことのないように、日本人の精神性を変えねばならないとされました。そして、GHQ(連合国軍総司令部)により教育改革が断行されました。教育勅語は失効され、さらに、学校教育で「修身」や「武道」などが禁止されたのです。  「修身」の禁止により、そこで教えられてきた儒教的道徳は、戦後、学校で習うことがなくなりました。本来であれば教育勅語や「修身」に代わる、人生を考えるための軸を育てる教育をどのようにすべきか、考えなければなりませんでした。この儒教に基づく道徳教育の喪失は、日本人の精神性を変えてしまいました。そして、『論語』を暗唱できる小学生もほとんどいなくなりました。  戦後、「道徳」の授業が復活したのは、敗戦から13年後の昭和33(1958)年です。理性ある社会人を育てることを目的とした「道徳の時間」が教育課程の中に設置されます。  しかしこの「道徳の時間」は、学級活動や学校行事などの「特別活動」や、2000(平成12)年から始まった「総合的な学習の時間」と共に、広い意味での「生活教育」を担う領域であり、正式な教科ではありませんでした。  だから、私自身が経験した道徳の授業は、当時のNHK教育テレビで放送していた教材番組を見るだけというものでした。  今にして思えば、先生たちは本当に何を教えればいいのか分からなかったのでしょう。道徳をきちんと教えようとすると、どうしても修身みたいになりかねず、「右翼」と言われかねない。人としての生き方を考える「道徳」は大切だとの認識はあるものの、イデオロギーの問題などもからみ、儒教的道徳に戻るわけにもいかず、かといってキリスト教的道徳を持ってくるわけにもいかない……。そのような「道徳の時間」が、つい最近までずっと行われていました。  その結果、日本人は「人としての生き方の柱」「精神の背骨」と呼べるものを失ってしまったように思います。もちろん、道徳の授業だけが原因ではありませんが、大きな理由の一つであることは間違いないでしょう。  だからこそ、やはり人間形成に道徳教育は必要であるという社会の声は高まる一方で、文部科学省も「道徳の時間」を充実させるために『心のノート』を作成したり、道徳教育推進教師を設けたりするなど改善を進めていきます。  大きな契機となったのは、平成23(2011)年の滋賀県大津市で起こった中学2年生のいじめ自殺事件でした。この事件をきっかけにして、いじめ対策の一環として道徳が教科化されることになったからです。  翌24年末に発足した第二次安倍内閣で設置された「教育再生実行会議」は、「いじめの問題等への対応について」(第一次提言、平成25年2月)を提出しました。この中で「道徳の教科化」が提言され、これを受けて「特別の教科 道徳」が位置付けられることになったのです。

「精神の柱」としての道徳の必要性

「道徳」の教科化については、批判が多いことも確かです。試しにインターネットで「道徳 教科化」で検索してみてください。「国の価値観を子どもに押し付けるのはよくない」「画一的な子どもを育てるだけだ」など、多くの否定的意見を目にすることができます。  しかし、私たち大人はすでに述べたように、日常のさまざまな場面で「道徳は必要だ」と痛感しているわけですから、やはり道徳は大切なものだと言っていいでしょう。  ところで近年、ビジネスの世界ではアメリカのMBA(経営大学院)で教えられるような経営理論に学ぶことが重要だとされます。そこでは、利益を最大化させるようなマネジメントや戦略についての理論が研究されています。  もちろんこうしたことも必要でしょうが、二十世紀初頭のドイツの社会学者・経済学者のマックス・ウェーバーが言ったように、プロテスタントの精神が資本主義を生み出したのであれば、経済行為というのは実は倫理的な後ろ盾があったほうが長続きしやすいのではないでしょうか。そして日本の場合、その倫理観の基本となるのは、やはり日本人が寺子屋から慣れ親しんできた儒教的道徳だと思うのです。  現に、明治時代の政治家や経営者たちは西洋から近代的な社会システムを輸入しながら、それに合うような企業を立ち上げ、成功を収めました。『論語と算盤』を著した明治時代の実業家・渋沢栄一にいたっては、軽く百社を超える会社をつくりました。  経営者だけではなく、会社で働く人たちも、少し前までは江戸の世の中に暮らしていた人たちです。それがあっという間に近代産業の担い手として立派に仕事をこなしているのです。  また、第二次世界大戦の敗戦によって世界最貧国になった日本を世界第二位の経済大国に復活させた高度経済成長期を牽引したのは、明治・大正時代から昭和初期に生まれて、戦前の「修身」教育を受けた世代でした。  これは当時の日本人が、「礼節を守り、まじめに勤勉に働くことが大切なのだ」という儒教の教えに裏打ちされた「精神の柱」を持っていたからこそ、できたことなのではないかと私は思います。  何しろ『論語』というのは、約二千五百年もの長きにわたって、人々から支持されてきたものです。そういう「真っ当な倫理観」を共有する社会が強いのは、ある意味当然のことです。柱があるからこそ、世の中が大きく変わっても、それに対応することができたのです。  しかし、戦後の教育現場には、残念ながら「精神の柱」となるものを教える授業はありませんでした。  起業するような活力ある若者を増やすためには、やはり柱が必要なのです。そして、儒教的道徳の教えは、基本的な倫理観として現代のビジネスパーソンにとっても充分「精神の柱」となり得るものです。 (文/育鵬社・山下徹)
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