北朝鮮を支配する国家イデオロギー「チュチェ思想」とはどんな思想なのか?

<文/篠原常一郎:元日本共産党国会議員秘書>    日本の厄介な隣国、北朝鮮は金一族が支配する国であり、日本人拉致事件を起こし、日本に向けてミサイル発射実験を繰り返したり、核開発を続けたりしていることは、日本人の誰もが知っていることである。  しかし、そのような活動の根底には、北朝鮮を支配する国家イデオロギーである「チュチェ思想」があるということは、ほとんど知られていない。  2019年になって、やっとインターネットの番組や、保守系の論壇誌などで、「チュチェ思想」について語られることが多くなった。この静かなブームに火をつけたのが、元日本共産党国会議員秘書の篠原常一郎氏である。篠原氏が2019年3月に、経済評論家の上念司氏とユーチューブで配信した「緊急特番『チュチェ思想研究会inチャンネルくらら』」は、50万回以上の再生回数を記録した。この度、『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(岩田温氏との共著、育鵬社)を上梓する篠原氏に「チュチェ思想」とは何か語ってもらった。

篠原常一郎氏

「チュチェ思想」は金日成が唱えた独自の国家理念

 一般の方々には、「チュチェ思想」という言葉は馴染みがないと思います。辞書で調べてみると、次のように書かれています。  チュチェ思想(「主体思想」と書く)朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮労働党の政治思想。マルクス・レーニン主義を基に、金日成(キム・イルソン)が独自の国家理念として展開した。人間は自己の運命の主人であり、大衆を革命・建設の主人公としながら、民族の自主性を維持するために人民は絶対的権威を持つ指導者に服従しなければならないと唱える。(小学館『デジタル大辞泉』)

朝鮮民主主義人民共和国の初代最高指導者、金日成(キム・イルソン、1912年~1994年)

 私が「チュチェ思想」について解説するにあたって、他の方々より「チュチェ思想」をよく知る立場にあったと思うのは、日本共産党の職員として何十年かを暮らした経験があるので、共産主義の変形(北朝鮮側は「発展させた」と言っていますが)である「チュチェ思想」の理論を、国際共産主義運動の歴史も踏まえながら理解しやすかったということがあります。

「チュチェ思想」はいつ、どのようにして生まれたのか

 まず、「チュチェ」は「主体」という意味です。主体的とか主体性といった言葉で使われるのと同じ意味です。  次に、いつ生まれたかという問題ですが、公式には二つの発展段階があると言われています。  まず1930年、満州事変の1年前ですが、当時、金日成が朝鮮半島で抗日戦争を行っていたということになっています。その頃、金日成が「朝鮮革命の主体的路線」をやっていく必要があるということを言ったとされています。  当時の時代背景は、これよりさかのぼること11年前、1919年に共産主義インターナショナル、つまりコミンテルンというものが、ロシア革命の後のソビエトの首都モスクワにできました。その後、世界中の共産主義者がコミンテルンのお墨付きをもらってそこからの支援を受けるために、いろいろ競い合いました。朝鮮半島の中にもいくつかのグループがあり、コミンテルンのお墨付きをもらうために派閥争いをしていました。  そして1930年6月末、当時18歳の金日成が中華民国の満州で開かれた「共青および反帝青年同盟指導幹部会議」で、日本による韓国併合や地主や資本家に対抗して資本主義を変えるのは覚束ないという立場を批判する論文を報告し、その中で、「朝鮮革命の主体的路線」を採っていく必要があると言った。これが「主体」という言葉を使った最初だと、公式には言われています。  1950年に金日成がソ連のスターリンや中国の毛沢東の支援を得て韓国に侵攻して始まった朝鮮戦争をきっかけに、チュチェ思想は発展したとされています。1953年に朝鮮戦争が休戦すると、朝鮮労働党の中には中国派やソ連派もいたのですが、ソ連や中国の言いなりになってばかりいてはうまくいかないのではないかという論争が起こりました。そこで金日成が1955年の12月28日に開かれた「党宣伝活動家大会」で、大国に付き従う事大主義や、ソ連流のマルクス・レーニン主義や中国の毛沢東思想を機械的に適用しようとする教条主義におもねるのではなく、朝鮮独自の主体性を確立する必要があるという演説を行い、チュチェ思想が生まれた、と公式には言われています。

チュチェ思想を実際に作ったのは黄長燁

 しかしこの公式の話は、元朝鮮労働党最高幹部で、金日成・金正日(キム・ジョンイル)のブレーンとして実際にチュチェ思想を作った黄長燁(ファン・ジョンヨプ)によって否定されているのです。  黄長燁は1923年に朝鮮半島で生まれ、中央大学法学部で学びました。戦後は1946年に朝鮮労働党へ入党し、1949年にソ連のモスクワ大学へ留学して哲学博士号を取得すると、帰国後は金日成総合大学で教鞭を執り、1965年に総長に就きます。その後、最高人民会議議長、朝鮮労働党国際担当秘書、最高人民会議外交委員会委員長などを歴任しましたが、1997年に日本のチュチェ思想研究会に招かれて講演した際、韓国へ亡命します。亡命後はソウルを拠点に、当時の北朝鮮の金正日政権に批判的な評論活動を続け、2010年にソウルの自宅で亡くなりました。87歳でした。  黄長燁は、チュチェ思想はマルクス・レーニン主義や朝鮮古来のいろいろな哲学も含めて作った思想だと言っています。ただし思想体系を作る上で、金一族が指導者として君臨するというのがその中心にある。だからチュチェ思想の端緒になるような金日成の言葉がなければいけない。それで一生懸命探して見つけたのが、先の二つの「主体」という言葉だったのです。

中国とソ連の影響の排除を正当化するための理屈

 「チュチェ思想」が公式に使われるようになったのは1967年5月、朝鮮労働党の第4期朝鮮労働党中央委員会第15回総会で唯一思想体系が確立されたことによります。唯一思想体系とは要するに、金日成を崇める思想以外のものを一切排除するという決定です。  この時期に注目していただきたいのですが、実は中国では1966年に毛沢東が、失脚に近い状態を挽回するために文化大革命を発動して、個人崇拝に基づいて国家内で紅衛兵を組織し、軍や党の幹部たちで毛沢東に逆らうような者をつるし上げ、排除しました。  毛沢東はこのような非科学的な路線で中国を大混乱に陥れるのですが、これに朝鮮労働党の中にいる中国派が呼応することが考えられました。また文革の数年前から、中国とソ連の間で社会主義の路線と覇権をめぐって論争や紛争が起き始めていました。その際、ソ連も北朝鮮の親ソ派を抱き込んで中国との争いを有利にしようという動きもありました。  これらの動きに対して、どちらも排除して実勢を確立すべく、金日成を押し立てて両派の排除を正当化するために、この唯一思想体系を確立したのです。つまり、そもそもの始まり権力闘争を有利に進めるための単なる理屈付けだったのです。  1967年12月には、北朝鮮の国会にあたる最高人民会議で、国家の基本政策である「十大政綱」に「主体思想」が明記されました。そして1970年に朝鮮労働党の「最高決定機関」とされる党大会(第5回)で金日成の「唯一思想体系」が定式化されました。このチュチェ思想に基づいて国家指導と対外路線をそれぞれ運営していくための思想体系は、「金日成主義」と呼ばれることになりました。現在は、金日成とその後継者だった息子の金正日も含め、「金日成・金正日主義」と呼ばれています。 これがチュチェ思想の成り立ちのあらましです。  結局、これで分かるのは、北朝鮮ではチュチェ思想について「人間第一の思想である」とか、「社会と自然に対する主人は民衆である」とか、きれいごとを言っていますが、実際には社会主義諸国の動揺や党内のさまざまな派閥を淘汰して、金日成の個人独裁、金一族の世襲体制が確立されていく中で絶対化され、独裁を支える思想になったのがチュチェ思想だったということです。 【篠原常一郎(しのはらじょういちろう)】 元日本共産党国会議員秘書。1960年東京都生まれ。立教大学文学部教育学科卒業。公立小学校の非常勤教員を経て、日本共産党専従に。筆坂秀世参議院議員の公設秘書を務めた他、民主党政権期は同党衆議院議員の政策秘書を務めた。軍事、安全保障問題やチュチェ思想に関する執筆・講演活動を行っている。最新刊は『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(岩田温氏との共著、育鵬社)。YouTubeで「古是三春(ふるぜみつはる)チャンネル」開局中。
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