更新日:2022年07月24日 17:20
スポーツ

五輪柔道の「無差別級廃止は欧米の外圧」はウソ ヘーシンクに勝てない日本が階級制を推進した!?

日本はヘーシンクに「勝ち逃げ」を許し、手痛いしっぺ返しを食う

 65年第4回リオ世界大会は、前年の東京五輪同様「無差別を含む」4階級で実施されました。東京五輪後に引退すると思われたヘーシンクは、結局この大会にも出場します。この大会で日本はヘーシンクに手痛いしっぺ返しを食うことになります。  この大会は東京五輪と異なり、「無差別級を含む2階級に重複して出場可能」という規定でした。日本は大会初日の重量級、最終日の無差別級に誰を出して、2階級出場と目されたヘーシンクを倒すのかが最大のテーマとなりました(各階級2名出場)。日本はその年の全日本王者・坂口征二(後にプロレスへ転向)を重量級、東京五輪重量級王者の猪熊功を無差別級に配するという布陣を敷きました。  ヘーシンクは31歳という年齢による不安、さらには東京五輪後の稽古不足による肥満や左膝の故障もありコンディションは悪く、大会初日の重量級では3回戦で坂口、決勝戦で松永満雄をようやく判定で降し、よろめきながらも優勝を飾ります。日本は最終日の無差別級では「打倒ヘーシンク」へ腕を撫して雪辱の機会を伺っていました。  ところが、ヘーシンクは意外や意外、重量級優勝の翌日、突如無差別級欠場と引退を表明してしまうのです。曰く、「私は重量級の試合で全日本王者の坂口を破って満足している。もう無差別級には出場しない。今が引退の時期だろう」(近代柔道 1982年4月号)と。本音を斟酌すれば、「俺は全日本王者に勝ったんだから当然世界一だ。何でリスクを冒して無差別級に出なきゃなんないんだ」ということでしょう。

「勝ち逃げ」したヘーシンクの言い分こそが正論

 この突然の引退劇に、日本柔道界は激怒し、日本選手団・浜野正平団長は「ヘーシンクは逃げた」と非難しました(柔道新聞373号 1965年11月1日)が後の祭りです。そもそもヘーシンクの言っている事こそが正論です。日本最強の象徴であるその年の全日本王者の坂口を世界最強を決める無差別級に出さなかった日本の単純なミスだと思います。  日本柔道界はおそらく「1965年4月末の全日本選手権の優勝者は坂口だが、その後の7月末に講道館で行われた世界選手権選考試合では猪熊が優勝しており(2位松永、3位坂口)、日本最強の猪熊を無差別級に出した」というロジックなのですが、そんな選考試合が行われていたこと自体、海外のほとんど誰も知りません。何せこの選考試合は「全日本柔道連盟50年誌」にすら記録が載っていない日本国内ですら存在を無視された大会なのですから…。

無差別級の存在意義を理解していない日本柔道界

 無差別級の存在意義は2つあります。一つ目は「柔よく剛を制す」という技術的理念の象徴としての無差別級、二つ目は「世界一強い柔道家を決める」という最強の象徴としての無差別級です。  一つ目の意義は、67年国際ルール導入以降の度重なるルール変更により「柔よく剛を制す」ことが困難になり、今日では事実上形骸化しました。  二つ目の意義は、日本が無差別級を「世界一強い男を決める」舞台として尊重し続ける姿勢さえあれば、守り続けることが可能でした。しかし、柔道史上、世界中で最も無差別級の権威を無視し続けてきた国こそが柔道の宗主国・日本なのです。  日本が無差別級を尊重したのは東京五輪の時だけです。この時は最強のプライドを賭けて無差別級で誰をヘーシンクにぶつけるかが喧々諤々の議論となりました。ところがそれ以降は、日本は無差別級を「単なる重量級の2つの階級の内の1つ」としか思っておらず、無差別級と重量級は同格という態度を常に取り続けたのです。

世界5大会連続で日本は無差別級代表に全日本王者を派遣せず

 何と日本は1965年以降、67年、69年、71年世界選手権、そして72年のミュンヘン五輪と5大会連続で、無差別級代表にその年の全日本選手権者を派遣しないという愚挙を犯してしまいます。全日本王者は65年坂口征二、67・69年岡野功、71年岩釣兼生、72年関根忍ですが、誰もその年の世界大会では無差別級に出場していないのです。  こんな出鱈目なことをする一方、日本柔道界は表向きは「無差別級こそが柔道の本質」と言い続けてきたわけですから、厚顔無恥にもほどがあります。69年に岡野を無差別級に出さなかった時(岡野は全日本大会後に引退)には、ヨーロッパの役員からは「日本は無差別級を諦めた」と揶揄する声すら挙がりました(近代柔道 1982年4月号)。  日本柔道界の言い分では、5大会ともたまたまその年の全日本王者にはならなかったがエース級の選手(全日本選手権優勝経験者もしくは同等の実力者)を無差別級代表に派遣しており、無差別級を軽視している訳ではない、ということなのでしょうが、国際的には何の説得力もありません。

学閥的思慮を感じるモントリオール五輪。上村・無差別級、遠藤・重量級起用

 その後も、1976年モントリオール五輪でその年の全日本王者・遠藤純男を無差別級に起用せずに、重量級に回しました(3位)。無差別級には上村春樹が出場し、金メダルを獲得しましたが、釈然としない思いを抱きました。上村・遠藤の実力は甲乙付けがたいものでしたが、五輪当年に限った実績では遠藤が明らかに上回っており(全日本選抜体重別選手権も遠藤が優勝)、遠藤を無差別級に起用するのが筋だったのではないかと思います。この上村の無差別級起用には明治大学の学閥的思慮を感じます(上村は明大出身、遠藤は日大出身)。東京五輪・神永昭夫、ミュンヘン五輪・篠巻政利と明治大学出身者が無差別級で連敗を喫しており、当時最大最強の派閥であった明大閥は「無差別級の雪辱は無差別級でしか果たせない」と上村の無差別級起用に固執したのは想像に難くないからです。

絶対王者・山下泰裕を無差別級に出さないという柔道史上最大のタブー

「無差別級こそが柔道の本質」と言い続けながら、相変わらずの言動不一致を続けた日本ですが、79年パリ世界選手権で遂に柔道史上最大のタブーを犯します。  この年まで3年連続全日本選手権優勝で絶対的な王者であった山下泰裕を最終日の無差別級ではなく、大会初日の95㎏超級に起用したのです(無差別級代表は全日本2位の遠藤純男)。大会では、山下・遠藤は共に優勝して日本は面目を施しましたが、誰が見ても最強の山下を無差別級に派遣しないという日本柔道首脳陣の論理的思考力のなさには呆れ果てました。  当時の醍醐敏郎強化委員長は「金メダル確実の山下を一番手に据えて一気にムードを盛り上げたい」(読売新聞 1979年12月4日付)とコメントを発し、当時東海大学の学生であった山下本人は異議を申し出る立場になく、この決定を受け入れる発言をしていますが、こんな馬鹿げた話はありません。

松前重義IJF会長が「無差別級本質論」で針のむしろに座る思い

 折しも、IOCの圧力でオリンピックでの無差別級実施は存亡の危機に瀕していました。その渦中の79年12月のパリIJF総会で国際柔道連盟会長に就任したのが日本の松前重義(東海大学総長)でした。松前は立候補の際には無差別級存続の姿勢を明確にしていました。  それにもかかわらず、79年IJF総会直後に行われた世界選手権で、日本は松前の東海大学の愛弟子に当たる山下泰裕を無差別級に起用しませんでした。  松前会長は世界最強の選手(しかも愛弟子)が無差別級に出なかったのに、IJF会長の立場上、IOCに対して「無差別級こそが柔道の本質」と二枚舌を使って無差別級の存続を説得し続けた訳ですから、これはもう針のむしろに座る思いだったのではないかと思います。  松前会長らの努力もあって、84年のロサンゼルス五輪で無差別級はどうにか実施されることになりました。その後IJFは女子種目五輪採用との兼ね合いもあって無差別級の存続を断念、結果的には女子種目採用と無差別級廃止がバーターのような形になりました。88年ソウル五輪からは無差別級が廃止となったのはご存じの通りです。

無差別級に理念に基づいた存在価値を!

 階級制採用と無差別級廃止には以上のような紆余曲折があり、まだまだ複雑怪奇な詳細については書き足りないのですが、その歴史の輪郭だけはご理解いただけたものと思います。  特に無差別級については、歴史的な視座で俯瞰すると、日本はほとんどの言動が場当たり的で一貫性がないということが分かります。これは「理念がない」、という言葉に置き換えても良いと思います。  今後、日本柔道界はお題目のようにただ単に「無差別級こそが柔道の本質」という台詞を乱用するのではなく、理念に基づいた真の価値を創造していかない限りは、貴重な身体文化としての柔道の命脈を絶たれる危機にあることを自覚すべきでしょう。  タックル禁止の現在の国際ルールでは、小よく大を制することは術理的にほぼ不可能なので、もはや国際舞台での無差別級は消滅したも同然ですが、少なくとも日本国内では未来永劫保存していく手立てを考えていただきたいものです。 <文/磯部晃人 写真/Nationaal Archief
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