日本遺産に認定された呉軍港には何が? カーマニア集団「MJ戦略参謀本部」伊達軍曹が往く!
第二次安倍政権の発足以降は若干風向きが変わったような気もするが、私が生まれ育った昭和後期は、「旧日本軍があった時代」のことはどこかタブー視されていたように思う。
現代ドイツにおけるナチス時代に対する禁忌感情ほどではないにせよ、旧日本軍と、それがあった時代の日本を大っぴらに賛美するのはどこかはばかられるムードがあり、当時の教諭らからも、その時代については主にネガティブな論調で教えられた。そして往時をリアルに知る祖父や祖母も、今や皆あの世へ行ってしまった。
大日本帝国がやろうとしたこと、あるいはやらかしたことの是非をここで問うつもりはない。それについてはインテリ各位に丸投げする。
ただただ私は、さみしく思う。
当時のこと、つまり自分の父や祖父が確かに生きた時代のことを、文献等で知ることはできるものの、「リアルな何か」としてこの手で触れることができないからだ。
当時のほぼすべては「敵国」により、あるいは日本人自らの手で、破壊されてしまった。ある意味今の私は「親をなくした子供」、あるいは「そもそも親を知らない子供」である。やはりそれは、どうしたって不幸な話だ。
だが「軍港のまち」には今も、父や祖父が生きた時代の名残りがふんだんにあるのだという。
軍港のまち。それは明治政府が西欧列強と渡り合うため、明治17年の横須賀を皮切りに、現在で言う広島県呉市と長崎県佐世保市、そして京都府舞鶴市に開庁した計4つの「鎮守府」に端を発する。
鎮守府とは、軍港に置かれた旧日本海軍の本拠地だ。島国日本の周辺海域を分割して防備するとともに、海軍工廠や海軍病院、水道など、多くの近代施設の運営と監督も行っていた。
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