差別はあった…被爆地を離れた人々の苦労
―[長寿被ばく者からの[10の伝言]]―
福島原発事故後、放射線の恐怖に怯える人々が続出している。かつて原子爆弾によって放射線の恐怖を知った先人は、現状をどう見るのか? 今こそ彼らの経験に耳を傾けよ!
◆東京で気づく周りの人の認識
米田チヨノさん(85歳) [当時19歳・長崎/爆心地から 1.0km]
被爆した際に背中に大やけどを負い、右腕を悪くするも病気はなし。結婚し、ご主人の転勤で東京生活を開始した米田さん。
「東京では差別に遭いましたねぇ。主人の実家の岩国から来たレンコンを近所に配ったことがあるのですが、原爆がうつって、死んでしまうと、捨てられていたことが、次女の友達に言われてわかったんです。ショックでした。被爆経験を言ったことはないのに、話が広まってねぇ。しかも、私は長崎生まれでも、レンコンは山口のもの。悪いはずないのに……。心ない噂に苦しむのはつらかったです。二度とこんな差別が生まれないことを願います」
◆就職差別というつらさもあったが…
早崎猪之介さん(80歳) [当時14歳・長崎/爆心地から1.1km]
爆心地の近くにある大橋工場で被爆。当時工場にいた32人中、生き残ったのは早崎さんを含め2人だけ。長崎から実家の島原に逃げ帰る際、「水くれ。水、水」と苦しむ人を、楽にしてあげたい一心で、水をあげ、何人も死なせてしまった(気管などの火傷を負った被爆者は水を飲むと水泡ができて窒息死してしまうため)ことを今でも悔やんでいるという。
「当時は被爆者っていうのは、いつ死ぬかもしれん病人と同じように扱われとった。私は元気やったが、何度も就職がダメになった。そういうんはあったが、私はもっと言いたかことばある。福島は長崎と比べれば、放射線の影響で死んだ一般の人はまだおらん。経験から危険やとは思いますが、私は今も元気ですし、心配しすぎて気に病むほうが心配やと思います」
◆土地を離れて後悔することも
中西 巌さん(81歳) [当時15歳・広島/爆心地から2.7km]
広島陸軍被服支廠で勤労動員中、被爆。翌日は市内で親類縁者の捜索に駆け回った。防空壕にいた被災者の中に祖母を見つけたときのことを今でも忘れない。
「みんな下痢をしていて、軍が入り口にロープを張っているんです。『赤痢だから隔離する』と。母は伝染病で跡取り息子を死なせられないと、やむをえず祖母を置いて9日に50kmほど市内から離れた田舎へ避難したんです」
結果的には放射線被曝から逃れることになった。しかし、長年「祖母を見捨てた」と親類からの白眼視は続いたという。土地を離れたことで背負った後悔もまた、被爆者を苦しめる要素だったのだ。
― 長寿被ばく者からの[伝言]【4】 ―
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