原爆体験者「白血球数が少ないことがずっと不安だった」
―[長寿被ばく者からの[10の伝言]]―
福島原発事故後、放射線の恐怖に怯える人々が続出している。かつて原子爆弾によって放射線の恐怖を知った先人は、現状をどう見るのか? 今こそ彼らの経験に耳を傾けよ!
◆白血球数が少ないことが今までずっと不安だった
青木 茂さん(86歳) [当時20歳・長崎/爆心地から2.0km]
長崎市電の赤迫駅近くに、今も三菱兵器地下工場跡が残っている。三菱兵器大橋工場の疎開工場として山裾に掘られたトンネル工場である。ここで勤務していたときに、青木さんはトンネルの外側から爆風を感じた。外に出れば周辺農家は炎を噴き上げ、大橋工場からの伝令は、親工場の壊滅を告げた。
「急いで大橋工場(爆心地から1.5km)へ救援に駆けつけると、死体や怪我人だらけ。私は彼らを救援列車に運んだり、工場の警備に就いていました」
爆風の方向と交差する向きに掘られたトンネルのおかげで直接の熱線は浴びず、爆発の瞬間に外にいた人より被曝量も少なかったはずの青木さんだが、大橋工場での作業で浴びた残留放射線が、その後、体に深い傷を残すことに。
「投下の1か月後、顔を洗うと眉毛がごっそり洗面器に浮いていた。歯茎からは出血し、下痢も止まらない。常に貧血で、立ち小便すると膀胱の縮小に合わせて血液が下がってきて、バタンと倒れてしまう。白血球が減っていたせいか、ツメでひっかいた程度の傷が化膿してしまう。これはいかんと年明けに郷里の佐賀に帰りました」
故郷では採炭作業員として炭鉱に勤めたが、体は気だるく、首を曲げることすら億劫な、いわゆる原爆ブラブラ病のためにたびたび欠勤し、下痢止め薬や栄養剤も欠かせず生活は困窮の極み。下痢の症状がようやく改善されるまで、17年かかったという。
「それ以降は、おかげさまでこの年まで大きな病気もせず、7人の孫にも恵まれています。しかし、私の4人の息子はいずれも白血球数が少なく、小さいころはよく化膿の手当てをしたことを覚えています。遺伝については議論が分かれていますが、私の被曝が原因では……と思ってしまうんです」
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