人の心は美しくなければいけないのか?
「心が美しい人が美しい人だと感じます」と言う結論はあまりに幼稚だ。心の美しさなど測りようもない。 そもそも人間の心が美しくなければならない必要もない。心が美しい人が上位であり、心が美しくない人が下位であると考えるとするならば、それは容姿差別と全く変わりがない。
「心の美しい人ランキング」なんてあったら容姿のランキング以上に大炎上するだろう。
「TC Candler 」You Tubeより
ただし、水原希子がこのランキングに嫌悪感を抱くのは充分に理解できる。何せ胡散臭いのだから。このランキングが権威付けられていく事は、傲慢さを容認することになる。
水原希子は、同ランキングに生理的嫌悪感を覚え批判したものの、理論武装ができず、結果として紋切り型のきれいごとを並べてしまった。そんなたわいもない印象を受けた。彼女の結論はピンボケだが、気味の悪いランキングに反発心を覚える事は当然の反応に思える。主張がきれいごとばかりなのは、とても危険なことではあるけれど。
一方で「モデルというルッキズムで稼いでいる人がルッキズム批判をするのはおかしい」という意見は、
ネットにありがちな狭量な幼稚さを感じた。ネットの議論は、たびたび「ルッキズム」のように言葉だけが強調されて、一義的な解釈に対して「是」か「非」を迫るような論調に陥りがちである。本来ならば「言葉」には、特に社会生活の中においては、様々な側面があるはずなのに。
「自己責任」と言う言葉が取りざたされた時にそれを強く感じた。「自己責任」は自由を担保する唯一のものだ。すべての人が自由を享受している以上、自己責任の中で生きなければならない。しかしそれが、貧困から抜け出せない者に、全く手を差し伸べる必要がないと言う理屈にはならない。
ルッキズムの問題とは、日常的な社会生活の中で、ルックスを理由に個人が著しく虐げられることだ。その意味において、モデルがルッキズムに物申すことに問題があるとは私はとても思えない。権威付けられた顔の美しさのランキングが、そのいじめを助長する可能性があると指摘することも全く問題ない。
しかし、ルッキズムの存在自体を否定し、見た目によることなく、人はすべからく平等に扱われるべきだと主張するとしたら、それは
欺瞞だ。モデルがそれをしたらさらに鼻につくだろう。水原希子は「見た目で人を判断するのは絶対違うと思うし 」とは言っているが、それを「人間全員が平等に扱われるべきだ」と主張しているとまでは解釈できないだろう。
ほとんどの人間が、
ルックスが良い人が得をすることを理解しながら、それが幸福な人生を送れることとは全く無関係であることを知っている。誰もが、自分の分をわきまえて、与えられた人生を楽しもうとしている。美しいとは、そういうことだ。
それにしても、冒頭のクロちゃんのツイートの、混ぜっ返しの素晴らしさはどうであろう。
きれいごとと極論の不毛な議論の枯れ木に、花咲かじいさんのようにぱっと笑いの花を咲かせた。そんな印象を受ける。私の中の「心のきれいな人ランキング」にクロちゃんをノミネートする……のはもう少しよく考えてからにしよう。
1968年生まれ。構成作家。『電気グルーヴのオールナイトニッポン』をはじめ『ピエール瀧のしょんないTV』などを担当。週刊SPA!にて読者投稿コーナー『バカはサイレンで泣く』、KAMINOGEにて『自己投影観戦記~できれば強くなりたかった~』を連載中。ツイッター
@mo_shiina