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映画『100日間生きたワニ』叩きやすいものを叩いて嘲笑うネットいじめへの激しい怒り

悪意の空気を変えていける、希望もある

ワニ 前述した「レビューサイトでの荒らし」や「絶賛の意見はカネをもらっているという決めつけ」は、「まともな批評」をも踏みにじる行為だ。実際に映画『100日間生きたワニ』を観た人からは、褒める意見も、もちろん酷評もあるのだが、そうした声さえも「どうせカネだろう」または「観ていないのに不当にサゲているのか」と疑いが持たれてしまう空気が作られてしまうのは、非常に残念だ。  これはクリエイターにとって、どれほど悲しい事態だろうか。忖度なしに褒めてくれる意見が嬉しいのは言うまでもなく、例え酷評されたとしても正当な意見であれば(落ち込んだとしても)今後に活かせる材料になる。そうした作り手と受け手の健全な関係性が、映画『100日間生きたワニ』では、過剰な悪意に覆い尽くされてしまったことが、本当に腹立たしい。  だが、希望はある。公開直後は、絶賛はカネによるものだ、そして酷評の意見だけが本当の評価だとする風潮がほとんどだったが、2~3日してその空気に異を唱える人、肯定的にせよ批判的にせよ、正当に作品を評価する声も続出した。ダ・ヴィンチ・恐山氏の「note」 や、M.S.S Projectのあろまほっと氏による「ブログ記事」も大きな反響を呼んでおり、映画『100日間生きたワニ』に蔓延していた悪意の空気は着実に変わっていっている。  SNSでは、ポジティブな話題よりもネガティブなものが伝達しやすいのは事実であるし、「叩いていいやつ」というラベリングによる悪意が拭い去りがたいことは、今回の反応で改めて強く思い知らされた。だが、「事実がどうあれ叩きやすいものを叩いて嘲笑するネットいじめ」さえもも、それを上回る誠実な意見がたくさんがあれば、実は覆せるのではないだろうか。  何より、今回におけるネットいじめは、作品のみならず、関係者や作品を純粋に楽しんだ人への「人格否定」にまでのぼってしまっている悪しきものだ。これは、クリエイターにとってプラスにもなる作品の批判(批評)とは全く異なるものなのだと、筆者自身も十分に注意するようにしたい。ネットいじめの「流れ」に乗ってしまうのは簡単なことであり、それに加担するものは罪悪感を持つことも、そもそもいじめていることにすら気づかないのだから。

映画自体も「好き嫌いが分かれる」内容ではあった

ワニ 筆者が『100日間生きたワニ』を絶賛する記事を書いた上で、大いに反省したこともある。それは、「好き嫌いが分かれる映画」であるという客観的な視点を持てなかったことだ。そこに言及してこそ、過剰につきまとう悪意に対しての「強度」を構築できただろう。  その好き嫌いの分かれる理由の1つが、派手さが全くないことだ。「間」を意識した演出は実写のドラマ映画のようであり、若者が観慣れているであろう、細田守監督や新海誠監督のような美麗な絵や躍動感のあるアニメとは全く異なる。その作りは原作の雰囲気にマッチしているし、口には出さないキャラの複雑な感情を読み取りながら観る面白さがあるので、筆者は肯定的に捉えている。だが、キャラの微妙な変化を描いていく物語も含め「間を取りすぎて退屈」「地味」「普通」と評されても、否定はできないのだ(さすがに「紙芝居」という意見は極端すぎるとは思うが)。  2つ目が、映画オリジナルキャラである「カエル」が「ウザキャラ」であることだ。そのウザさは作劇上でとても意味のある、完全に意図的なものではあるのだが、必要以上に嫌悪感を覚えてしまい、楽しめなかったという方も見かけた。仮に本作がネット配信された際に「カエルがウザすぎて途中で観るのをやめた」という理由で酷評する方も出てくるのではないだろうか。  つまり、映画『100日間生きたワニ』は、原作のプロモーションの大炎上と、理不尽に歪められたバッシングムードがなくても、ある程度は批判的な声が届いていた(実際に届いている)作品ではあるのだ。その作品について正当に意見を交わす場(レビューサイト)さえも、多くの悪意によって覆い尽くされたというのが、改めて悔しい。
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