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板垣退助「知られざる定年後の人生」。私財を投げ出し、華族制、家父長制に異を唱えた“先見性”

家父長制がはびこる家族のあり方に異論

板垣退助 社会を良くするためにはまず、「家庭の改良」から着手することが必要だと退助は説く。それは「家庭なるものは人類の共同生活の第一段階にして、人は家庭に在りて其智徳を養成し、然る後ちに始めて社会の一員として活動すること」(板垣守正編『板垣退助 全集』原書房)ができるからだという。  ところが、日本の家族制度は家父長制という封建制度の悪しき風習が残っており、家族はずっと家長に絶対服従を強いられてきた。これはまるで、専制国家の君主と人民の関係である。だが、すでに我が国では立憲制が確立されている。その仕組みを家庭にも取り入れ、個人の自由を加味するなどして、家長は家族を立憲制下の国民のように取り扱う必要があると説く。  さらに退助は、第二段階としての自治体の改善も主張する。自治体は老年組、中年組、青年組の三組織で構成することとし、村の不良者が出たときは同年齢集団でこれを矯正し、争いも各集団で仲裁する。それでも治まらないときは三組織の連合会を開いて解決すべきだと述べる。また、自治体は常に基金を蓄え、内部の貧者や困窮者に対して救護すべきだとした。  退助は政界引退後、こうした独自の社会改良の考え方を各地を講演して歩き、積極的に新聞などの取材にも応じて国内に広めていこうと努めた。明治三十七(一九〇四)年には、風俗改良会の機関誌『友愛』まで創刊している。  同年、日露戦争が勃発し、国内から百万を超える兵士が出征、多数が戦死したり傷ついたりした。負傷兵のなかには、身体に障害が残り働けなくなった者も少なくなかった。退助は兵士の遺族や身体障害者となった兵士たちを支援する活動も積極的に展開していった。

華族制は四民平等の理念に反する

 明治四十(一九〇七)年、退助は長年考えていたことを実行に移した。八百五十人の華族(元大名・公卿、維新の功労者の家柄)に対し、意見書を送ったのである。華族という名称をなくし、さらに爵位の世襲を廃止しようという提案だった。これは政府や世間を驚かせた。板垣は書面で意見に対する賛否も問うたが、回答してくれた華族はわずか三十七名。うち十二名しか賛同者はいなかった。  これより二十年以上前の明治十七年、伊藤博文が中心になって華族令が制定された。大名と公卿に加え維新の功労者も華族とし、公・侯・伯・子・男の爵位を与えて特権的な地位に置いたのである。国会を開設するにあたって華族を貴族院議員とし、国家の藩屏(はんぺい)にするためであった。  この制度が成立したとき、授爵を断ろうとしたことでわかるように、退助は皇室を除いて、国民一般の間に階級という垣根を設けることは四民平等の理念に反すると考えており、なおかつ、そんな華族(爵位)が個人の賢愚にかかわらず子孫に世襲されることに大きな疑問を持っていた。  退助は、刑罰が子孫に及ばないと同様、爵位の恩典も子孫に及ぼすべきではないとして「一代華族論」を主張。天皇と国民とのあいだに華族という特権階級をつくれば、両者の間に溝をつくることになると非難した。
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私財を投げ出し、社会問題に取り組む
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歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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