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板垣退助「知られざる定年後の人生」。私財を投げ出し、華族制、家父長制に異を唱えた“先見性”

私財を投げ出し、社会問題に取り組む

 土佐藩の重職の家に生まれながら、退助の目はいつしか弱者に注がれるようになった。自由民権運動で全国を遊説する過程で、悲惨な人びとの生活を目の当たりにしたのだろうか。あるいは、父親が精神的な病を抱えていたことも、大きいかもしれない。退助は弱者を救うべく、多岐にわたる活動を精力的に展開していった。  小作を保護する法律をつくれと唱え、公娼を廃止せよと叫び、女性犯罪者の子供を保護する施設を支援し、目の不自由な人から職を奪わぬよう、健常者が按摩になることを禁止せよと主張した。 人間の平等をとなえ、弱者に優しい社会をつくろうとした退助だったが、社会主義や共産主義には賛同しなかった。社会主義は無競争を生みだし、個人の才能や特技を発揮することができず、勤勉な人を怠け者にする思想だと断じた。個人間や集団間での競争ーーそれこそが、人類を進歩・向上させるのだという信念を持っていたのだ。  よく功成り名を遂げた人間が、余暇と財産を持てあまして慈善事業に走るケースがあるが、退助の場合は単なる金持ちの道楽ではなかった。政府の顕官を辞して以後、自由民権運動からはじまって政治活動、さらに社会改良運動と、退助は己のもてる財産、賜金、寄付金などすべてを投げ出して活動した。  このため家屋敷も手放し、晩年住んでいたのは竹内綱からもらった屋敷だった。部屋が二十以上もある大邸宅だったが、金がないので手入れもできず、すべての部屋が雨漏りするほどだったと伝えられる。
『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』

『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』

個人としての美しい徳を持っていた

 とはいえ、趣味もあった。とくに熱中したのが競馬と相撲だ。  中江兆民は、板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人であると評価している。 このように退助は後半生、ほとんど政党や政治と関わりを持たず、社会改良会の総裁につき、もっぱら社会問題の解決に力を注いだのである。大正八(一九一九)年七月十六日、退助は満八十二歳の高齢で歿した。  生前、華族一代論をとなえて世襲制に反対していたため、その子・鉾太郎(ほこたろう)は、亡父の遺志を継いで爵位を受けなかった。 
歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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幕末・明治 偉人たちの「定年後」

第一線を去った後の生き方にこそ、
男の本当の価値が見えてくる

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