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福永祐一調教師が振り返る「巨大なプレッシャーが襲いかかった‟あのダービー”」

レース当日に巨大なプレッシャーが襲いかかる

福永祐一氏 レース当日は、体調が悪いわけではないのに熱っぽかった。いわゆる知恵熱というやつだと思う。とにかく朝からずっと緊張に飲まれていて、最終的にはボーッとした感じに。今思うと、緊張して固くなっているほうがまだマシだったが、そんな状態はとうに通り越し、集中力のゲージが限りなくゼロになっているような状態だった。  今ならわかるが、あの状況を生んだのは、東京2400mの勝ち方を知らないという不安、ダービーに向けた心構えもよくわからないという不安など、経験のなさによる準備不足が不安を生み、それが緊張となり、最後は巨大なプレッシャーとなって襲いかかってきたのだと思う。  そうなれば、正常な判断なんてできるわけがない。返し馬では、自ら申し出てみんなとは逆の方向に行ったのだが、そこに一体どんな意図があったのか、自分でも思い出せないくらいだ。

我に返った4コーナー「このまま落馬してしまおうか……」

 そして、いよいよゲートイン。  キングヘイローは、スペシャルウィークに次ぐ2番人気に支持されていた。1枠2番からポンとスタートを切り、皐月賞と同様、セイウンスカイがハナに行くのだろうと思いながら外を確認すると、どうやら今回は行かない様子。そして、気づいたときには自分が先頭にいた。  ウワーッと沸いているスタンド前を先頭で走りながら、まるで他人事のように「盛り上がってるなぁ」なんて思っていたのだから、完全にどうかしていた。そのまま体に力が入っていないような状態でフワーッと進んで行き、迎えた最後の4コーナー。  直線に向いたところで、後続に一気に飲み込まれた。  我に返ったのは、そのときだった。 「大変なことをしてしまった……」  直線はズルズルと下がっていきながら、「このまま帰るわけにはいかない。坂口先生に合わせる顔がない。いっそのこと落馬してしまおうか」なんて、あってはならないことを本気で考えていた。  結局、勝ったスペシャルウィークから遅れること2・6秒、14着でゴール。惨敗だった。  検量室前に引き上げていくと、そこに坂口先生の姿はなかった。その事実が何より先生の心境を物語っているように感じて、厩務員さんに「すみません……」と謝るのが精一杯。その後、何度かそのときの映像を見たが、顔面蒼白とはこういうことを言うのだと思うくらい、自分の顔は真っ白だった。  呆然自失となった自分は、マスコミの前に出ていく勇気もなく、ジョッキールームに引きこもった。すると四位さんがやってきて、「祐一、記者の人たちが待ってるから。ちゃんと喋ってこい」と優しく声をかけてくれた。 「わかりました」と答え、おぼつかない足取りで記者たちの前へ。消え入りそうな声でインタビューに答えた気がするが、何を話したのかは覚えていない。  今はもちろん、当時も、デビュー3年目の若手がダービーで2番人気の馬に乗るなんて異例中の異例だった。それでも、マスコミの取材に対し、オーナーの浅川吉男さんと坂口先生は「福永洋一が勝てなかったダービーに、息子で挑む夢があってもいいじゃないですか」と答え、その手綱を自分に託してくれた。  その思いに応えるどころか、完全に緊張に飲まれ、暴走という最悪の結果に──。  あのダービーを思い出すと、今でもいたたまれない気持ちになる。なぜなら、浅川オーナーにとって、所有馬をダービーに送り出したのはキングヘイローが最初で最後。そして坂口先生にとっても、結果的にあれが最後のダービーになってしまったのだから──。  結局、恩返しができないまま、浅川オーナーは亡くなり、坂口先生も2011年に引退。浅川オーナーの生産馬と所有馬は息子である昌彦さんが継がれたものの、今度は自分が引退してしまった。御恩を返せなかったという心の痛みは、生涯消えることはないだろう。
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キングヘイローでの経験があったことによる進化
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父は現役時代に「天才」と呼ばれた元騎手の福永洋一。 96年にデビューし、最多勝利新人騎手賞を受賞。 2005年にシーザリオでオークスとアメリカンオークスを制覇。 11年、 全国リーディングに輝き、JRA史上初の親子での達成となった。18年、日本ダービーをワグネリアンで優勝し、父が成し遂げられなかった福永家悲願のダービー制覇を実現。20年、コントレイルで無敗のクラシック三冠を達成。23年に全盛期での引退、調教師への転身を決断。自身の厩舎を開業してセカンドキャリアをスタートさせる
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