仕事

名門大学から「整形靴職人」の道を選んだ31歳男性。「障害者が景色として馴染む」ドイツで腕を磨く日々

靴選びは「病院に行く延長線」だった

山田英輝氏

職場にて

――当時の整形靴は、山田さんにとってどのような存在でしたか? 山田:今振り返ると、当時の保険制度や技術をフルに活用して製作してもらったと思います。ただ、当事者の私の目からみても、問題点はありました。  まず保険適用で製作できる整形靴は、原則1年半に1回までと決まっています。子どもの成長スピードを考えると、現実に即していないことが理解できると思います。そのため、整形靴は常にボロボロで、使い込まれた状態だったのを覚えています。また、ただでさえ限られる色とデザインの中で、1年半に1回しか新調できないとなると、必然的に色も黒や白といった無難なものしか選べませんでした。  当時の私にとっては「靴を買う」というのは、靴選びを楽しむショッピングではなく、あくまでも病院に行く延長線だったんですね。

「子どものころに傷ついていた」と就活時に気づく

――特に子どものころ、脳性麻痺が原因で整形靴を履いていることで周囲からの目が気になったりはしましたか? 山田:露骨ないじめなどはなかったものの、やはり視線を感じる場面はありましたね。たとえば小学校時代、教室に入るときは上履きを履くと思いますが、私は整形靴が脱げません。教師からは理解されていますが、どうしても子どもは「なんで山田くんだけ靴で良いの?」と思いますよね。子どもは特に“異なるもの”に敏感ですから仕方ないと思うのですが、「些細なことでも自分が傷ついていたんだな」とあとになって自覚しました。 ――「あとになって」というのは、具体的にどのくらいの時期でしょうか? 山田:職業を選択する時期になってですね。私は大学を卒業し、そのまま大学院入試を受けて修士課程に進みました。関心があったメディアなどへの就職を考えていましたが、どこかで自分の障害のことが杭のように抜けませんでした。それにはたぶん、これまでの人生で自分が障害者であることを突きつけられる瞬間が日常的にあったことも影響していたんだと思います。
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「障害者と自覚した経験」が2度ある
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ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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