「1990年のライオンズは最強だった」と断言する石毛宏典が、ヤクルトの“ID野球”に対抗心をいだいていたワケ
1980年代から90年代にかけ、圧倒的な強さでプロ野球界を席捲した黄金期の西武ライオンズ。常勝軍団を類まれなリーダーシップで牽引したのが石毛宏典だ。
広岡達朗と森祇晶という2人の名将から学び得たことをはじめ、対抗心を持っていたという“ID野球”に対する見解と自身のこだわり、さらには、チームを束ねるために大切なことを語ってもらった。

「自分がリーダーだったから、キャプテンだったから、ということではなく、当時のチームは選手の力量がすごかったですし、広岡監督が選手の力量を上げる指導をしていました。毎試合後に行われるミーティングで試合を振り返り、改善点を伝えるなど、建設的なフィードバックをしていましたし、それを続けた首脳陣が優れていたんです。技術指導と野球観の教育は必要だと思い知らされましたね」
石毛は西武に14年間在籍し、そのうちの4年間は広岡監督、9年間は森祇晶監督のもとでプレー。2人の名将から、それぞれ異なる学びを得た。
「広岡監督からは、『技術が勝敗を左右するスポーツだから、技術力を磨け』とよく言われましたし、そのために必要なノウハウを教え込まれました。技術が身につけば『上手くなったな』と褒めてくれましたし、なかなか上達しない時は『そんなんじゃダメだ』と容赦がなかったですね。
森監督就任1年目にはキャプテンに就任し、監督・コーチのミーティングにも参加するようになりました。選手としてプレーするだけでなく、チーム全体を俯瞰し、且つ首脳陣と選手のパイプ役を求められていましたし、シーズンを通しての選手起用や戦略など、チームマネジメントを学ばせていただきました」
1980年代前半~90年代半ばまで続いた黄金期。なかでも、石毛が “最強”と自負するのが1990年。2位に12ゲーム差をつけてリーグ優勝し、巨人と相まみえた日本シリーズでは4連勝で日本一。圧倒的な強さを見せつけたシーズンだ。キャプテンとして改めて当時のチームを振り返る。
「個人としても、チームとしても、経験と技術と戦術が最高潮に達していたのが1990年です。走攻守で隙がなかったと思いますし、シーズンも日本シリーズも負ける気がしませんでした。ただ、それ以降はチームが下り坂に入っていったんです。1992年と93年にヤクルトスワローズと日本シリーズで対戦し、92年は西武が勝ち、93年は負けましたが、92年もヤクルトの2つのミスがなければ負けていたと思います。
3勝3敗で迎えた第7戦。ヤクルトに1-0とリードされて迎えた7回表2死一、二塁の場面で、ピッチャーのたけちゃん(石井丈裕の愛称)が打ったライナー性の打球をセンターの飯田哲也が落球し、同点に追いつきました。これが、まず一つ。
もう一つは、7回裏一死満塁の場面。ヤクルトの代打・杉浦亨さんがセカンドにゴロを打ちました。三塁走者の広沢克己(現・広澤克実)が本塁に向かってスライディングをしましたが、スタートが遅れたうえにスライディングも悪く、アウトになったんです。セカンドの辻発彦の送球やキャッチャーの伊東勤のブロックがよかったなどといった意見もありますが、広沢のスタートが遅れていなかったらセーフだったはずです」

1993年の日本シリーズ第1戦 西武対ヤクルト 石毛が右腕に死球を受けた際、グラウンドで話す西武・森祇晶監督(左)とヤクルト・野村克也監督 ©産経新聞
名将から学んだ技術指導と管理術
1990年のライオンズは最強だった
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界を経て起業。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ・ニュース系メディアで連載企画・編集・取材・執筆に携わる。X(旧Twitter):@buhinton
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