「生まれて初めて弟に嫉妬した」香山リカ氏の弟が高橋幸宏ライブで昏倒
香山リカ氏の不定期連載『人生よりサブカルが大事――アラフィフだって萌え死にたい!』の第6回が到着!
かなりの反響があった前回の記事「あの3人組さえいなければ」YMOを疎んじた香山リカ氏の父」(https://nikkan-spa.jp/489493)では、香山氏がいかにYMOにハマり、そのことが弟さんの人生を大きく変えたことが赤裸々に語られていた。その弟さんにとんでもないことが起きたそうで……。
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――私たちのテクノ人生、今日があがりと言っていいんじゃね? これ以上の日はもうこの先、絶対ないよ。どうせなら私、こんな日に死にたいな。
そんな青くさいセリフをタクシーの中でつぶやいたその2時間後に、まさかあんなことが起きようとは……。
それは、9月23日のことだった。
その日は、秋分の日、ザ・お彼岸の中日。
実家のある小樽市に住む母親は一昨年、亡くなった父親の遺骨を納めた納骨堂(北海道はお墓のかわりの納骨堂文化が九州と並んで普及している地である)に出かけたらしく、そこから電話をかけてきて「これからこのケータイを納骨堂にさし入れるから、あなたもお父さんに話しかけなさい」とシュールな指示を出した。
ただ、このシュールさは私の母親の持ち味なので、私は「ああ、母は元気なんだな」と安心し、「お父さん、お久しぶり。『半沢直樹』も昨日で終わりましたが、まさか出向とは現世はとかくままならないですね」などとわざとらしく語りかけたのだ。
そしてその後、私は弟(左ひじをついて寝転んでYMOを聴きすぎ、ひじになんと「とこずれ」ができてしまったヤツ、中塚圭骸)と待ち合わせて、渋谷のオーチャードホールに向かうことになっていた。私と弟は、なんと高橋幸宏氏の所属事務所からユキヒロさんのソロコンサートに招待されているのである。
自慢じゃないが、私は誰かのコンサートに招待された経験など、ほとんどない。もちろん、YMO関連の方々のライブに招待されたことなどゼロ、皆無である。
それどころかYMO関連のコンサートは人気が高く、チケット入手がたいへん困難なので、私はよく抽選に落ちるという憂き目を見る。実際に昨年、暮れに行われたユキヒロさんの還暦記念ライブは、満を持してその日を開けておいたにもかかわらず、抽選にもれてついにチケットを買うことができなかった。
そんな私や弟が、ユキヒロさまの事務所から直々にご招待いただいたのだ。
天にも昇る心地とは、まさにこのこと。
しかも、これまでどんなに念を押してもほぼ100パーセント待ち合わせ時刻に遅れて来るのがあたりまえの弟が、この日はよほどうれしかったのだろう、遅れずにその場所に立っていた。
母も取りあえず元気。弟も待ち合わせ時刻にやって来た。しかも、これから向かう先は、ユキヒロさんのコンサート。その上、ご招待。
冒頭のセリフは、落ち合った弟と会場に向かうために乗ったタクシーの中で思わず私の口から出たものだ。
そして、それからコンサートに行って何が起きたかは、弟に直接、語ってもらうことにするが(本稿末尾に掲載)、要は、弟はコンサート会場で倒れ、救急病院に搬送され、そしてとりあえずは生還した。
まだ検査中ではっきりした診断名はわからないのだが、いつもは上が140~150の血圧(高すぎるって!)が突然60~70まで下がり、昏倒したのだ。弟の文章では、「コンサート中、姉が何度も立ち上がろうとする自分を制した」とあるが、実は途中から弟はややもうろうとしているようにも見えたため、「立たないほうがいいよ」と止めていた、と釈明したい。
まあ、いずれにしても「天にも昇る心地」が本当の昇天にならなくてよかったが、ホールの通路で見る見るうちに顔色が蒼白となり、救急隊が来て名前を呼びかけても答えられずにストレッチャーに乗せられた弟を見たときは、私は「これは心筋梗塞あるいは脳出血だな。かなりヤバイ状態かも」と思った。
ふと気がつくと、会場内はすでにアンコールタイムになっていて、名曲『Something in the Air』が大歓声の中で演奏されているのが、扉の向こうから聞こえてきた。
「じゃ、行きますよ」と意識のない弟を乗せたストレッチャーが通路を通り、救急車に向けて運ばれていく。
もし、これでマジにおしまい、なんていうことになれば、ユキヒロさんの名曲に送られて弟は天に昇っていくのか。
――それはそれで、あまりに整合性の取れた人生じゃないか。
私は、いまだから言えるが、生まれてはじめて弟にちょっぴり嫉妬した。 <文/香山リカ>
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【香山氏の弟・中塚圭骸氏による特別寄稿】
BROADCAST FROM HEAVEN
中塚圭骸
ユキヒロライブのセットリスト見ていて、どこでこうなったのか思い出している。 「WILD&MOODY」的なメンバー呼び込み曲があった。ああ、ユキヒロさん小柄だな、カカトくっつけて両手振ってかわいらしいな、と思った。 オープニングは「ANOTHER DOOR」。ワールドハピネスのこともあり「RIPPLE」だろうな、と考えてたので驚いた。でも体調は変わらず。 「Looking For Words」。これが大好きで、高揚する。「Time to Go」「Last Summer」……、この曲、裏でシンドラがうすーく鳴ってるんだけどライブでは無し。衝撃だった。 こんなところまで覚えているので、ここまでは正常。 ユキヒロさんMC。 「立って踊っちゃってください」 「前の人が立っても、なんだよオメエよ、立つなよ!なんて言わずに負けずに立っちゃってください!」 こんな感じのことを言って、ユキヒロさんは「さっ」とジャケットを脱いだ。 このMCはよーくわかる。客が座って聴いてるのと、立って笑顔で手拍子しているのでは、演者も聴衆もそのライブの印象がまったく違うものになる。 なにより、みーんな初老で最後まで座って見てた、なんてユキヒロが耐えられるとは思えない。 「細野さん、オーチャードすごかったんですよ」 「教授、この前の東京、ノリノリ!」 そんなことをユキヒロさんに言わせたい。人生を素晴らしく、そして台無しにしてくれた人に恥はかかせられないだろう。ユキヒロさん初恋の女性、映画『罠にかかったパパとママ』の主人公、ヘイリー・ミルズのように軽やかにジャンプしたり、クラフトワークの81年来日公演のように、両手を左右に振るだけでもかまわない。 僕は当然、すっくと立った。 するとどうだろう、ジャケットの裾を引っ張る人がいる。後ろは空席だった。 姉だった。 恥ずかしいのかな、と思って周りを見ると、前列で集団で立って手拍子をしている女子たちが居た。他にもポツポツ立っている人が見える。みんなユキヒロさんに悲しい想いをさせたくない忠義者たちだ。 再び立つ。姉がすごい力で引っ張る。「PRICE TO PAY」でまた立つ。姉が引っ張る。 この10年、ライブ・コンサートの在り方は大きく変わった。提供側にカネが無くなった。なので舞台装置など無きに等しいものとなった。興行収入など出るわけはないので、レジを通さない、ドンブリ勘定グッズを全国で売るためのツアーとなった。 けれどもそれは、イベンターの都合であって、板に乗る演者はそうはいかない。練習をたくさんしなければならないし、覚える段取りもいっぱいある。我々はその演者を救わなければならない。木戸銭を払ったから楽しませてよ、は90年代までのことだ。 立つ―引っ張る―立つ―引っ張る……、何度繰り返したろう。自分がコントロールされている、と気付いた瞬間から記憶がない。「The End of Era」からだ。 記憶が戻ったのは、アンコール前ラスト「Follow Your Down」という示唆に富んだ曲の最中だった。 猛烈に吐きそうで、バッグからANAの防水袋を出した。うまく袋が開けられない。そしてロビーへ。救急隊員が来てくれたようだ。 「血圧70の40、体温35.1」と聞こえた。場内ではアンコールが始まっていて、「Something in the Air」のイントロが流れていた。 YMOと出会う前の、中学生のころ、そうだ中1だった。死んだ父に「ちゃんとした大人にあってほしい」という名目で、札幌交響楽団のコンサートに連れていかれたことがある。クラシックの素養など無い13歳には退屈極まりないものだった。ほとんど寝ていたと思う。 「ジャジャーン」と曲が終わった瞬間、感極まった父親が 「ブラボー!!」 と立ち上がった。 僕はそれが(ブラボーという言葉も込みで)とてもとても恥ずかしくて、父親のジャケットを引っ張った。 そのときの父親の青ざめた顔、苦笑しつつも、悲しみと憎しみに満ちた眼を僕は忘れない。 搬送先のベッドの左隣の紳士は「今日の朝の薬をもらっていない」と言い続け、看護師と押し問答を繰り返したあげく、「帰る」と言い出し自分で点滴針を抜いてしまった、ユキヒロさんと同い年の男性だった。結局は病院に居続けるのだが、その男性が消灯後「畜生、畜生」とつぶやく。 怖い、というより哀しくて、左に身体を向けられない。僕はいつもの左肘を支点にするポーズをやめた。4泊5日の入院の結果、左肘にできていた「とこずれ」は消え、それは右肘に移った。
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