安楽死ってどうなの? 傑作映画はかく語りき【後編】
末期の脳腫瘍で余命宣告を受け、動画サイトに「安楽死」を予告した米国人女性・ブリタニー・メイナードさん(29)が、予告通り医師の処方薬を服用して死亡した事件が、世界中に賛否両論を巻き起こしている。
そこで、身近な問題として安楽死を考えてみたい人に、とても参考になる映画があるのでご紹介しよう。
⇒【前編】「海を飛ぶ夢」「ミリオンダラー・ベイビー」を紹介 https://nikkan-spa.jp/749436
◆尊厳死を行なおうとしたら殺人に
日本での尊厳死・安楽死の現状を知る上で最適なのは、「医療か? 殺人か?」のキャッチコピーで公開された日本映画「終の信託」(’12)だろう。
尊厳死とは、簡単に言えば延命措置を行なわない自然死のこと。安楽死とは、薬物などを使用して死期を早めること。
重度の喘息患者の江木秦三(役所広司)は、医師の折井綾乃(草刈民代)に事前に「最期の時は楽にしてほしい」と言付けし、その意思に従って尊厳死を迎えさせようとする。しかし、ショック症状で暴れ出したため、気が動転した折井は大量の鎮静剤などを投与して死なせてしまう。
当時、この映画について日本尊厳死協会・副理事長の長尾和宏氏は、「女医が尊厳死させようとしたまでは倫理的に問題は無い。しかし慌てて瞬間的に殺人に変容した点をどう見るかという映画だ。医者的には、彼女がした行為は全くの殺人と言われて返す言葉が無い。これを世間のみなさんが尊厳死と間違われたら大変なことだと思いながら観ていた」とコメントした(「Dr.和の町医者日記」、「終の信託」を試写会で観た、’12年9/2付)。
「終の信託」とは、リビングウィル(延命治療を断る意思表示)のことだ。
しかし、映画が実際の事件をベースに、赤裸々に描写したように相手は、不確定要素の多い“生身のカラダ”だけにコトは単純に運ばない。とはいえ、リビングウィルがなければ終点を決めることができないのも事実だ。当然医師も家族も本人の意思が分からなければ混乱は免れないだろう。
欧米ではリビングウィルは当たり前だが、日本では未だマイナーなのが現状。法制化には国民的な議論が必要となる。
ご存じかもしれないが、経口摂取が困難な患者の胃に直接栄養を流し込む「胃ろう」(PEG)は我々が将来選ぶ可能性のある延命措置の一つだ。これも随分前から本人の意思が明確でない場合が多いため大きな問題となっている。
これはもはや他人事ではないのだ。
◆社会の約束事を超える死の不条理
イギリス映画「僕が星になるまえに」(’10)は、末期がんで余命数か月の青年・ジェームズ(ベネディクト・カンバーバッチ)に寄り添った当事者視点の傑作ドラマ。
この主人公が、自分のやりたかったことや行きたかったところに行き、最終的には安楽死のような自分なりの死に方を追求しようとする話なのだが、そんなこととはつゆ知らずに旅行に同行していた仲間達がそれを聞いて猛反対する。しかし、偶然モルヒネが切れてのた打ち回る主人公を目の当たりにし、仲間たちの心境に微妙な変化が生じ始める……。
仲間たちは、社会の約束事や自然な感情から「死に急ぐのは良くない」と考える。だが、主人公は、凄まじい痛みと死の圧倒的な不条理の前では、社会の約束事や自然な感情など、何ほどのものでもなくなってしまうことを一番良く知っている。この世界がガラガラと崩れ落ちる感覚は、本編中最も幻想的な情景として繰り返し挿入される。
まさに刻一刻と迫る崩壊への予感。「限られた時間内に自分の納得できる形で生を全うし、死を迎えること」、それが最優先事項となる。
映画は、この当事者と周囲の者とのズレが必然であることを当事者の側から徹底的に描く。しかし、これは程度の差こそあれ誰もが死ぬ側になれば通る道でもある。「ミリオンダラー・ベイビー」に出て来る台詞、「人は毎日、死ぬ。床掃除や皿洗いをしてね。そして人生を悔いながら最期を迎える」――多かれ少なかれこれが真実に近いだろう。だから涙なしには見れないのだ。
我々が自分自身や親近者の死を避けられない以上、尊厳死も安楽死も決して無関係ではない。優れた映画や文学作品に触れることによって、心構えの「想定内」を少しでも広げることができるのではないだろうか。 <文/真鍋 厚>
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