“第三の産声”をあげたスパリゾートハワイアンズ
3月11日、筆者はスパリゾートハワイアンズ(以下、ハワイアンズ)で被災した。それから、東京に帰るまでの3日間で出合ったいくつもの“奇跡”を記した手記は、小誌および小誌ウェブサイトにて掲載され、予想を超える大きな反響を呼んだ。あれから約200日経った10月3日、スパリゾートハワイアンズ営業再開の一報を聞いた筆者は、あの日泊まることができなかったハワイアンズに宿泊させてもらうこととなった。そこで見た”奇跡”の正体とは?
◆筆者が目にした“奇跡”の正体は……
夜が明け、部屋から駐車場を一望する。思えば、この駐車場が短い間ではあるが、被災者生活の始まりだった。水着のまま避難し、ホテルに入ることもできず、駐車場でただ震え、余震に怯えるばかりだった、最初の1時間。やがて、雪が降り始め、絶望は加速していったのを、ありきたりな表現だが、本当に昨日のように覚えている。それでも、パニックにならなかったのは、従業員の方々の、献身的かつ迅速な対応のおかげであった。水着の人にはタオルを、寒さに震える人には防寒具を、座りたい人には毛布を、どこからか持ってきて渡す。慣れない場所で被災し、怯えるほかない私たち利用者たちにとって、それはまさに“奇跡”のように見えた。
しかし、当時の話を従業員の方々に聞くと、誰もが口を揃えて「本当に、当たり前のことしかしていません」と言うのだ。手品のように次から次へと出てきた食料も、魔法のように集められた18台の帰宅用の大型バスも。
そうした献身的な行為を、“奇跡”などと、まるで天から降ってきたかのように表現したことを、今さらながら恥じ入るばかりだ。
1966年、廃業寸前だった常磐炭鉱の起死回生の一手として建設されたのが「常磐ハワイアンセンター」。それが’90年になり、50億円もの総事業費をかけ大リニューアルした結果、できたのが「スパリゾートハワイアンズ」である。それから21年後の’11年10月1日。東日本大震災による約200日の休業期間を経て、この施設は“第三の産声”をあげた。これは、福島復興の合図として、さまざまなメディアを通じ、全国に響いた。
――そして、“奇跡”は軌跡となり、ハワイアンズを突き動かしていく。あの日、筆者が受けた行為より、一段と素晴らしいものに昇華させ、走り続ける。きっと、ずっと。
― 福島「スパリゾートハワイアンズ」復活の軌跡【3】 ―
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