これが最強のプロレス文学! 樋口毅宏の『太陽がいっぱい』<クラッシャー佐村編>を特別無料公開

 佐村は鍵を開けて家に入る。ずいぶん日が経ったはずが、焦げた匂いが残っている。玄関の三和土には妻の使い古したサンダルが見えた。三週間分の着替えやタイツを詰めたカバンを上がり框に置く。 「おーい、いるかー」  佐村は妻の名を呼んだことがない。戦中生まれの彼は妻に「愛している」と囁いたことはないし、優しい言葉や感謝の気持ちひとつ口にしたことがない。それでも国プロ倒産のときは、「これから苦労をかけるかもしれないが、おまえを路頭に迷わせるようなことはない」と、侘しい夕餉に呟いて、妻は伏し目がちに酌をしてくれた。  熊毛郡を出て、角界からプロレス界へと、縦社会の厳しい世界で鍛えられてきた。戦争帰りの先輩たちはみな口より先に手が出た。筋が通らない鉄拳に耐え、許容量を超える酒を飲み、花街を連れ回された。冬はトルコ風呂で過ごして、情の深い娼妓に付き纏われたことがある。しかしそれも追い回しの頃だけで、国プロのメインを張るようになると、責任感から地方に出ても夜遊びはほどほどになった。  二十四のときに手紙をくれた沼津の雑貨屋の娘に、二度目の喫茶店で求婚した。以来、子供はいないが穏やかな日々を過ごしてきた。  五年ほど前からジョンと名付けた捨て犬と、休みの日は散歩をするようになった。西部劇をレンタルビデオ店で借りてくること以外、これといった趣味のない佐村のささやかな楽しみになった。  しかし四十で真日のリングに上がってから生活は激変した。まず、佐村は妻が買ってきてくれたハンチング帽とマスクなしでは、街まで足を延ばせなくなった。振り返る人たちの目は好奇と敵意に溢れている。金曜夜八時の力を、身をもって感じた。公称一八五センチと、レスラーの中では平均の佐村だが、変装をして心持ち猫背で歩いても、目ざとい者から罵声が飛んできた。 「おまえ佐村だな? 大手を振って歩きやがって。あんた佐村のカミさんか。よくこんな男といて平気だな。おまえら二人とも死んじまえ」  毒気に当てられた妻は帰宅後、寝込んでしまった。それ以降、夫婦の外出は控えている。  家にいれば安全だろうと思ったが、イタズラ電話が多く、寿司やラーメンの出前が二十人前届くこともザラで、気の弱い妻は代金を払って、引き取ってもらった。  中でも二人を悩ませたのはジョンのことだった。テレビ放映の翌日は、どこで調べたのか、佐村の家を突き止めて、白昼から投石やゴミが投棄されるようになった。庭に小便や枯葉剤を撒かれたこともある。  もっとも震え上がったのは、ジョンのエサ入れに毒物を盛られたことだった。泡を吹いて腹を見せる愛犬を掛かり付けの動物病院に連れて行った。茶色の艶やかな毛は目に見えて青褪め、カテーテルで胃を洗浄している間ずっと、小刻みに震えていた。十日の入院生活を終えて家に連れ帰ったが後遺症が残って、後ろ足を曳くようになった。交番の巡査に現状を訴えたが、「犬でしょ? 犬じゃなー」とまともに取り合わなかった。佐村がこれらのあらましを知ったのは、巡業から帰ってきた後だった。  ジョンを家の中で飼うことにした。佐村を見るとジョンは身体を起こして、彼の太い足に纏わり付く。そのときもびっこを引いている。胡坐をかいてヒザに乗せると、罪のない目で顔を舐め回した。憐れを誘う黒目に佐村はまた無口になった。  控室の外でテレビカメラや記者たちが待機していた。鍵をかけているが、連中に押されて今にも窓ガラスが割れそうだ。佐村たちは気が気ではなかったが、カルロス麒麟はいたって鷹揚に構え、友達の部屋のように寛いでいた。さっきまで袋叩きにされて苦悶の表情を浮かべていた男は、マスコミやファンのいない密室に籠もるや涼しい顔で、「やれやれ、だな。ここまでやらないといけないのかねえ」と愚痴を零した。  麒麟はチェアで足を組み、断りなく岸口のセブンスターを手に取った。「おい火」と呼びかけると、東村が一礼してから使い捨てライターの石を擦った。麒麟は身体が冷えるからと、あらかじめ用意させておいたガウンを羽織り、点けっ放しのテレビを眺めていた。  ブラウン管はその日の大相撲の取組を伝えていた。先場所の千秋楽で同じく横綱の北の湖を破って優勝を決めた千代の富士は、初場所も順調な仕上がりで、中日まで全勝で折り返していた。およそ恵まれているとは言い難い体格だが、ウェイトトレーニングを導入した筋肉隆々の五体で、あんこ型の力士を寄り切ってきた。  序二段止まりだが角界経験者の佐村は、十両時代の千代の富士を見たとき、これは大物になると予感した。その頃から右四つの引き付けが上手かったし、何よりスピードが違った。あれよあれよと出世街道を突き進み、今や日本中で知らぬ者はいない。大横綱の北の湖に陰りが見えてきた頃と入れ違いに現れたハンサムのスター誕生に、それまで相撲に関心のなかった子供たちまで虜にした。 「憎らしいぐらい強かったのにな」  座るなと命じられたわけではない。しかし麒麟を前に、佐村たちは立ち通した。返事のない三人に麒麟は続けた。 「北の湖だよ。それが千代の富士が出てきたら、あっという間にみんな千代の富士千代の富士だもんな。北の湖はショックだろうな。だけどファンなんてそんなもんだよ、俺に言わせりゃ」  麒麟はチェアに仰け反りながら、背中のモミ玉に身を預けている。低い稼働音の中、感情の見えない顔で、天井に向けて白い煙を吐いた。突き出たアゴと、首も腕も足も細いが「最強」を名乗る男を、佐村はじっと見下ろした。  麒麟は数々の名勝負で日本中を熱狂させてきた。リング上だけでなく、世間に対してプロレスを仕掛けてきた。新宿の伊勢丹デパートを、女優の妻と買い物中に、悪役レスラーに襲わせたこともある。大衆を振り向かせるためなら手段は選ばなかったし、スキャンダルをビジネスに変えてきた。  佐村はタッグも合わせれば百回以上、麒麟とリングで交えてきたが、強さよりも上手いと感じることのほうが多かった。パワーは自分のほうが上だが、プロレスは単なる力自慢ではない。むしろそれ以外のものが多く求められる。麒麟はカネを払った人間が何を欲しているのか、天才的な嗅覚を持つ舞台俳優、言わば千両役者だった。しかも客を喜ばせるだけでなく、怒らせることや驚かせることにおいても一流だった。状況を読む能力に長け、客が白けていると感じれば、手前勝手に試合の展開を変えるため、対戦相手もアドリブが求められた。  あるときも麒麟は佐村に馬乗りし、強く殴るふりをしながら、勢い前屈みになった際、「寝てろ」と耳打ちした。その日は両者リングアウトのはずだったが、佐村のダーティファイトに業を煮やした麒麟がレフリーを突き飛ばしたため、反則負けの裁定が下った。ゴングが打ち鳴らされ、レスラーが総出でリングに雪崩れ込む。セコンドに引き離された麒麟は握り拳を作り、まだやるぞ!とアピールした。場内大歓声の中、麒麟は制止を振り切り、果敢にも佐村に突っ込んでいく。ゴングの乱れ打ち。観客のボルテージは最高潮に達し、この日の瞬間最高視聴率を記録した。麒麟は実況席のディレクターを一瞥し、テレビの生中継が終了したことを確認すると、四方に向けて優雅に手を振り、リングを後にした。 「こないだのよ、数字良かったってよ」  麒麟は思い出したように言う。「こないだ」とは、前シリーズの大阪最終戦で行った髪切りマッチのことだ。麒麟と佐村の負けたほうがリング上で丸坊主になるという、古典とも言える試合形式だった。試合はなぜかその日、リングサイドに陣取っていた国プロの元レスラーからハサミを手渡された佐村が場外乱闘の際、岸口によって羽交い絞めにされた麒麟の髪を切る暴挙に出た。なぜそんなことをしたのかと訊かれても、佐村は答えに窮する。麒麟の指示に従ったまでだった。怒りに火が付いた麒麟は観客のパイプ椅子で憎き敵を蹴散らし、リングに戻ると佐村に延髄斬りを連発して勝利を奪った。スリーカウントを取った後も麒麟の怒りは治まらず、鬼の形相で佐村の首を絞めながら大見得を切った。そしてこれも指示通り、岸口と東村は隙をつき、佐村を連れて足早にリングから退散した。麒麟は彼らが逃げ去った花道を睨みつけ、マイクを握り締めた。 「佐村このヤロー、てめえ男の恥を知れ、男の恥を! いいかこうなったらな、永久追放にしてやるからな! 見てろよな!」  麒麟はマイクを叩き付けた後、右の拳を突き上げて雄叫びを上げた。大阪府立体育館がひとつになる。これまで積もりに積もっていたフラストレーションが昇華され、麒麟と佐村たちの二年に及ぶ抗争のひとつの区切りとなった。  この翌日、佐村の自宅は火を付けられた。幸い発見が早かったためボヤで済んだが、消防車六台による消火活動は近所の顰蹙を買ったため、佐村は近隣住民に大きな身体を曲げ、菓子折りを持って回った。そこでよく言われた。 「佐村さん、あんたが卑怯な戦い方をしなければいいんじゃないの」  麒麟はどう思っているのか。仕事とはいえ呵責のようなものはあるのか、佐村は問いかけたかった。そこに、同じことを考えていたのか、この機会を逃したら他にないと思ったのだろう、岸口が灰皿を差し出し訊ねた。岸口には小学生の子供が二人いて、長女は泣き顔を見せぬよう、帰宅してもすぐに自分の部屋に引き込むという。男子数人を相手に大立ち回りを演じて、担任の教師から呼び出しを喰らったと、妻に零された話をしていた。  岸口は手短に、佐村の家が放火されたことを伝えた。麒麟の表情は変わらなかった。 「悪役冥利に尽きるな」  岸口の持つ灰皿に煙草を押し付けた。 「テコ入れをしてきたが、さすがにワンパターンだな。考えないと」  麒麟は髪を搔きあげる。これまで二度、麒麟と佐村、岸口、東村の一対三という変則マッチを行ったが、いずれも不透明決着で終わった。もし麒麟が三人全員からピンフォールないしギブアップの完全勝利を収めたら、そこでストーリーは完結してしまうので、これも麒麟の目論見通りだった。ひと通り以上のことはやってきた。しかし今後の展開は?と問われると、誰も思い付かないのが実情だった。 「社長! 大丈夫ですか社長!」  ドアを叩く新町の声が聞こえる。カメラのストロボが一斉に焚かれた。 「やい佐村っ、てめえ社長にもしものことがあったらタダじゃ済まさんぞ!」  佐村は岸口と東村の顔を盗み見る。自分もこんな呆気に取られた顔をしているのだろうかと思った。麒麟が声を潜める。 「おい、突っ立ってんじゃねえよ」  岸口と東村はハッとして、怒鳴り声を上げた。椅子を振り上げてロッカーにぶん投げる。 「おらー麒麟、どうだテメエー!」  東村の足が空の床を蹴る。麒麟は冷徹な目で彼らの動きを見ていた。遅れて佐村もその輪に加わりたいが、どうしたらいいかわからず、自分の顔をペチャペチャと叩き出した。 「そのへんでいいや。ここから出ていっていいぞ。荷物は後で届けさせる」  言うや麒麟はガウンを脱いで床に這った。岸口と東村はハイっと頭を下げてから扉に向かう。岸口はきょとんとしたまま立ち尽くす佐村の腕を摑み、ノブを回すと同時にこの日いちばんの気勢を上げた。
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家の中は静かだった……
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太陽がいっぱい

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