これが最強のプロレス文学! 樋口毅宏の『太陽がいっぱい』<クラッシャー佐村編>を特別無料公開

「いやあ、佐村はん、恩に着るで」  ぎしぎしと軋む急行電車の中で、新町は解放された安堵感からか、上機嫌で喋り続けた。 「健さんの任侠映画が好きでね、学生時代にずいぶん劇場で観たもんやけど、あんなん嘘っぱちやで。本物のヤー公は義理人情よりコレや。あんたもようわかったやろ」  錆びた鉄の向かい合わせた座席で、新町は指で輪を作る。缶ビールを飲みながら、解放された興奮を舌に載せた。佐村が労いの言葉をかけると、新町は大きな声で会社への不満を吐き出していった。 「だいたいやで、ウチをここまで大きくしたんは誰のおかげやと思うてんの? レスラーはみんなアホやから全部自分たちの手柄やと勘違いしよって。東京は良くても地方なんかワシらが下げたくもない頭を下げて切符を買うてもらってんのを忘れやがって。せやからこっちもちょっと甘い汁を吸わせてもらおと思うたらこない目に遭わされて。ええかげんにせえっつーの」  続けてカルロス麒麟が槍玉に上げられた。 「だいたいやね、あの化け物アゴ男を日プロ時代から目ぇかけてきたのはワイよ? それを自分ひとりで大きゅうなった顔して。二階に続く梯子をかけてやったのは誰やと思ってん? ま、その後自力で三階四階五階と上がっていったんはあのアゴやけど……」  窓の外は一面、深緑の畑地が続いた。同じ道をぐるぐる回っているのではないかと、佐村はまったく別の場所にいるのに、どこまで行っても出口が見つからなかった生まれ故郷のことを考えていた。 「とにかく麒麟ほど汚い男はおらへんで。ジェット・ジンに伊勢丹で襲われたアイデアかて、女優のカミさんにはワシが断りなくやらせた言うて土下座までさせおって。きょうかてそや。ワシに嘘の星取表教えよって、おかげであんたも巻き添え喰うてな。身内にこないなことまでして何のつもりや」  増長しているあなたへの懲罰じゃないでしょうか、と佐村は喉元まで出かけてやめた。自分で気付かないとダメだと思ったのだが、次の放言は聞き流すことができなかった。 「あれかてそうや。ワシと鉄ちゃんに不仲を演じさせてんのも」  佐村は視線を終わりのない風景から正面の新町へと移した。 「どういうことですか」 「せやからー。それもあの男の奸計なのよ。わざと派閥を作らせて競わせてんの。そういうの、ホンマにあの男は好きなの。レスラー同士やとさらに話は複雑よ。ジェラシーの塊の人たちに、“あいつはおまえを良い風に思うてへんで”とか、ワシや鉄ちゃんを使って焚きつける。仲良し小好しより、普段から気の合わんモン同士のほうがええ試合になるからな。せやかて自分の手は絶対に汚さへん」  新町が佐村を手招きする。近づけた岩のような頭の真ん中にある、潰れた耳に吹き込む。 「きょうの試合も気ぃ付けな。そろそろ契約更新の季節やし。何をしでかすか、あのアゴはわからへんで」  佐村は黙って聞いていた。  電車がトンネルに吸い込まれて、車内は闇に包まれた。  麒麟の拳が佐村の顔面を捕らえた。リングで大の字に倒れた佐村に、中指を突き立てた拳骨が眉間や鼻柱や前歯の歯茎に食い込む。  そもそも打ち合わせでは地味な手四つの取り合いから五分経過のアナウンスでロープに振られてのコブラツイストと、いつもより緻密な取り決めをしていたはずだった。なのにまったくの不意打ちが起こった。試合前のボディチェックで、レフリーのダンディ高梨が屈んで佐村のシューズに手をかけた次の瞬間、麒麟の延髄斬りが炸裂した。佐村は何が起こったのかわからなかった。まったく受け身を取っていなかった。国技館の吊り屋根を仰ぎながら、手足が痺れて動かなかった。山鳴りにも似た歓声が巻き起こっていた。 「オラ立てコラ!」  麒麟が手を叩いてアピールする。殺伐とした観客から物騒な言葉が飛び交う。場は相撲の聖地というより闘牛場に近かった。  佐村は無理やり立たされる。口の中が熱くて苦い。叩き折られた鼻骨と前歯めがけて、麒麟のナックルパートが飛んできた。さっきまでの連打より手加減してある。おまえも撃ってこいという合図だ。佐村が麒麟の尖ったアゴを殴る。麒麟のヒザが落ちかかる。しかしすぐにまた佐村の顔を殴る。麒麟の胸板を狙って腕が振られる。一進一退の攻防には理由があった。一方的な私刑にすると自分の評判が落ちることを麒麟は知っていた。たまの反撃は試合の緩急に繫がる。麒麟は間を溜めて、振りかぶって佐村の両耳を全力で張った。血しぶきをあげて佐村が倒れ込む。悲鳴と絶叫が混ざった喝采が送られた。  鼓膜が破れた佐村は無音状態にあった。遠い意識の彼方で考えていた。孤独の列車、故郷の喪失――あのときと同じだと。  しかし感慨には浸れなかった。佐村は強引に耳を摑まれて立たされる。頭の奥でブチっと引き千切れる音を感じる。それからリングの外に、粗大ごみのように投げ捨てられた。  これまで場外乱闘になると必ず岸口と東村が加勢をしたが、この日はクリーンファイトで通すというブックだったため、二人は指を銜えて見ていた。励ましの声もなかった。大舞台だというのに観客より遅れて、しかも酒の臭いをさせて会場入りした佐村に、岸口と東村は失望していた。  振り下ろされた椅子の、金具の部分が脳天を直撃した。俯せに倒れて、観客に見えないように若手のレスラーが取り囲む中、高梨がカミソリで佐村の額を切った。いつもより深々と刻まれて、彼の視界はさらに濃い紅に染まった。  心構えはできていたはずだった。レスラーたるもの、いつセメントを仕掛けられてもいいよう、普段から研鑽を怠ることはない。ましてや新町から警告を受けていたはずなのに、好き放題に蹂躙され続けた。子供の頃、街頭テレビの下で力道山対木村政彦を観た佐村はプロレスの怖さを知った。力道山という鬼神に戦慄し、木村政彦を憐れに感じた。そして今、自分が木村の立場に置かれると何も切り返せなかった。  麒麟は戦後の少年時代に、一家でブラジルに渡った。新天地で農園を開く夢を語った祖父は、移民船の上で腸閉塞を起こして死んだ。サンパウロに着くと、聞いていたのとは大きく違う、家畜同然の労働生活が待ち受けていた。炎天下、コーヒー豆を捥ぐと軍手がボロボロに破ける。夜はおよそ人間の住居とは思えない藁小屋で眠りにつく。地獄の底から数年後、どうにか牛馬を飼えるまでになり、空手の師範代である兄から手ほどきを受けて身体を鍛えた。暇潰しの砲丸投げがブラジルの記録を塗り替えると地元の新聞に取り上げられ、日系の有力者がサンパウロに来た力道山と引き合わせた。  それから四半世紀、麒麟の人生は波乱万丈などという一語では到底言い尽くせない。彼は師匠の力道山同様、四角いマットに暗い情念を落とし込み、観客に生き様を見せつけた。歴史上の人物であるボクシングの世界チャンピオンと対戦し、「世紀の凡戦」と酷評されて、十五億円もの借金を背負った。同じ年、パキスタンに招かれた際、試合開始三十分前に脚本がないことを告げられたが、十万人のアラブ人が取り囲む中、英雄の称号の付く対戦相手の左目に親指を差し込み失明させた挙げ句、腕を叩き折った。  数々の事業に手を出しては失敗した。その中にはサトウキビの搾りかすを再利用するという、今で言うところのバイオテクノロジーもあったが、どれひとつ実を結ぶことはなかった。限りない欲望と底なしの野心が彼の原動力であり、すべてだった。  麒麟は佐村との一戦から六年後、政界に進出し、トップ当選を果たす。そして齢五十を過ぎて引退が近づいた頃、インタビューでこう答えた。 「今でも命のやりとりなら、誰にも負ける気がしない」  プロレスは一本調子の力比べではない。強さよりも求められるものがある。勝新や長嶋や健さんがそうであるように、「こうあってほしい」という世間が願うカルロス麒麟を演じるうちに実像をなくしたが、それは彼自身望んだことでもあった。  佐村は麒麟にあらゆる尺度で負けていた。強欲のスケールは太陽と蟻ほどの差があった。勝負はあらかじめ決まっていた。  リングに戻されたときには、佐村はすでに虫の息に近かった。一矢報いようと機会を窺っていたが、麒麟は巧妙に佐村の金的を蹴った。しかも二度。泡を吹いて失神しかけたところを、こめかみを殴られて息を吹き返した。すぐにでもフォールを奪えたが、麒麟は観客に向けて自分を超越的存在として誇示する必要があった。この頃囁かれ出していた、年齢による限界説を払拭し、怒らせたら恐ろしいと下々に知らしめる狙いがあった。  佐村はなぜ自分がこのような目に遭うのかわからなかった。自分は麒麟にどんな罪を犯したというのか。しかし、神は得てして気まぐれであり、歴史上この地上に降臨したときも、愛や平和を唱えるためではなく、理不尽な暴力と殺戮を楽しむためだった。  佐村は贖罪の山羊だった。麒麟は、幾重にもテーピングを巻いた佐村の手の甲を踏み付けて、身動きが取れないようにしてから、幾度も冷酷な拳を降り注いだ。佐村には頭部より、愛犬の歯型が喰い込んだ箇所のほうが切なかった。  リング上の赤い湖面に白い歯が転がって、鉄拳制裁という儀式は終わった。  試合時間は十分足らず。これまでのシングルで最短だった。ゴングが激しく鳴らされた後も、麒麟の咆哮が谺する。信者たちは壮大な復讐劇を見て、残酷な喜びに打ち震え、リング上の神を崇拝した。  佐村は担架に乗せられ、控室まで運ばれる。けれども救急車には自分の足で乗った。それが佐村の選ばれた生贄としての、同時にプロレスラーとしての矜持だった。  いつまでそうしていただろう。部屋で佐村は動かないジョンと一緒にいた。  妻が一階の台所に降りていった後も、ジョンに動きはなかった。佐村は腫れた両瞼でジョンを見つめ続けた。身体の端々が痛かった。痛くない箇所はなかった。片耳は依然聞こえない。応急処置をした医師は「大きな病院でしっかり診てもらうように」と言った。「寝れば治ります」と答えると、呆れて首を振っていた。  夕餉には小瓶のビールが添えられた。欠けた前歯で初めて採る食事だった。口の中が沁みる。テレビも点けず、中曽根首相の政治動向を報じる新聞の一面を脇目に、黙々と煮物を口に運んだ。妻は佐村の怪我について詳しく訊ねなかった。愛情がないわけではないことを、彼は知っていた。風呂に入って眠るまで、二人はひと言も口を利かなかった。電気を消すときに、「明日ジョンを庭に埋めよう。桃の木の下にでも」と佐村は伝えた。彼なりのまごころを込めたつもりだった。
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次のシーズンが始まる直前、佐村の家の前に外車が止まった
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太陽がいっぱい

これが最強のプロレス文学

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