原発反対派の不都合な真実――東日本大震災は“原発の安全性を証明した”

新潟、鹿児島で反原発の知事が誕生したが……

<文/佐藤芳直 連載第11回>

昭和50(1975)年当時の福島第一原子力発電所(国土交通省国土画像情報)

 10月に行われた新潟県知事選挙は、東京電力柏崎刈羽原発の再稼働が争点となった。柏崎刈羽原発は全7基が停止しており、原子力規制委員会が適合審査中である。知事選は、共産、社民、自由が推薦する再稼働に慎重姿勢の米山隆一氏が、自民、公明推薦の候補らを破って初当選を果たした。  米山氏は、原発が立地する道県では、九州電力川内原発のある鹿児島県に続く「慎重派知事」の誕生となった。6月に行われた鹿児島県知事選でも、脱原発を標榜する元テレビ朝日・政治担当キャスターの三田園訓氏が現職を破り、初当選を果たしている。  一方で、11月の新潟県柏崎市長選では、柏崎刈羽原発の「条件付きでの再稼働容認」を掲げた無所属の新人で元市議の桜井雅浩氏が、共産・社民推薦の原発反対派候補を破り、初当選した。また、刈羽村でも再稼働容認派の現職、品田宏夫氏が無投票で5選を決めた。  反原発の論調の地元紙を含む一部メディアは、鹿児島、新潟の県知事選の結果を大きく書きたてた。しかし、知事には、再稼働を止める法的権限はない。実際、定期検査で停止中だった九州電力川内原発1号機は、12月8日夜、運転を再開した。

東日本大震災は“原発の安全性を証明した”

 日本では、福島第一原子力発電所でのメルトダウン発生後、原発の危険性が叫ばれ、反原発の運動が激しくなった。より厳格な安全基準が設定され、各地の原発が定期点検などで順次運転を停止すると、平成25年9月以来、27年8月に一部の原発が稼働を再開するまでの2年近くにわたり、すべての原発が稼働を停止していた。  日本では、東日本大震災によってあたかも原発の危険性が証明されたかのように言われている。だが、世界の常識は真逆だ。東日本大震災は、“原発の安全性を証明した”。  中国は震災が起きた年の8月には100基の原発の開発を宣言した。アメリカは1979年のスリーマイル島の原発事故後、30年以上原発の開発は凍結されていたが、同じく2011年12月、東芝の子会社ウェスチングハウス開発の新型原子炉の設計を認可した。  なぜ世界各国は、あの原発事故の後に原発増設に舵を切ったのか? 特にアメリカはなぜ、よりによって日本企業である東芝傘下の原発を許可したのか? それは、震源地に最も近かった女川原発が生き残り、周辺住民の避難所として3カ月間活用されたという事実があったからである。  東京電力福島第一原発では、津波被害のために冷却用非常電源が作動しなくなったことにより、原子炉が危機的な状況に陥った。一方、震源により近かった東北電力女川原発では、福島第一原発を襲ったものと同程度の津波に襲われたが、被害が軽微だったのである。

福島第一原発はアメリカ製

 太平洋沿岸の2原発が明暗を分けたのは、設計時に想定した津波の違いによる立地の差だった。福島第一原発が想定した津波は最高約5.7メートル。しかし、実際にやってきた津波は高さ14メートルにおよび、海寄りに設置したタンクやパイプの設備を押し流した上に、重要機器の非常用発電機が水没。東京電力は原子炉を冷却できなくなる事態に追い込まれた。  福島第一原発は、国内商業用原発としては最も古い部類に入る。米ゼネラル・エレクトリック(GE)の原子炉の設計図を東芝などが購入し、1960~70年代にかけて建設された。当時は原発先進国・米国の技術を学ぶ過程にあったため、設計通りに作ることが至上命題だったという。福島第一原発にある6つの原子炉のうち、1~5号機はGEが開発をした「マークⅠ」と呼ばれるタイプの沸騰水型炉だった。非常用発電機の場所や、ポンプの構造は、GEの基本設計の通りだったという。  一方、6号機からは、原子炉建屋により余裕のある「マークⅡ」の改良炉が主になった。非常用発電機の位置やポンプを覆う建屋の建設も、東芝や日立製作所が経験を積みながら、改良されていた。  原発の設計に対する国の審査の基本になるのが「安全設計審査指針」である。1970年に定められ、地震や津波など「最も過酷な自然条件」に耐えられるよう求められている。78年には地震対策に的を絞った耐震指針も定められた。だが、福島第一原発1~6号機は67~73年に着工し、耐震指針がない時代に設計されている。

なぜ女川原発は重大な被害を免れたのか

 一方、平成17(2005)年の宮城県沖地震など幾度も津波に見舞われた三陸海岸にある女川原発の方は、東北電力が津波を最大9.1メートルと想定。海沿いに斜面を設け、海面から14.8メートルの高さに敷地を整備した。  ちなみに東北電力は、女川原発の安全評価に当たって、1611年の慶長津波や1896年の明治三陸津波など、過去に東北地方に大きな被害を与えた津波について、文献調査、考古学的・堆積学的調査などを行い、そのデータに基づいて数値シミュレーションを行ったという。  女川原発では、1~3号機のうち最も海に近い2号機の原子炉建屋の地下が浸水し、非常用発電機の一部が起動しなかったが、別の系統が稼働して無事停止した。そして、女川原発周辺の被災した住民に対し、東北電力は原発の敷地の体育館に最大で約360人を受け入れ、食事も提供したのである。  アメリカは、福島第一原発を設計したのが自国の企業だったことは当然分かっている。GEが、あろうことか津波が来るかもしれない海岸に、ディーゼル発電機を海面から2メートルしか段差がないところに造っており、そこに海水が入ったために電力を喪失して原発事故が起こった。  アメリカは、「それさえなければこんなに原発は安全だったのか」と気づいたのだ。だから、アメリカも原発の新設を許可したのである。 【佐藤芳直(さとう・よしなお)】 S・Yワークス代表取締役。1958年宮城県仙台市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、船井総合研究所に入社。以降、コンサルティングの第一線で活躍し、多くの一流企業を生み出した。2006年同社常務取締役を退任、株式会社S・Yワークスを創業。著書に『日本はこうして世界から信頼される国となった』『役割 なぜ、人は働くのか』(以上、プレジデント社)、『一流になりなさい。それには一流だと思い込むことだ。 舩井幸雄の60の言葉』(マガジンハウス)ほか。
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