「生き抜く覚悟」と「平和の尊さ」を学べる平和祈念展示資料館(5)――引揚船の船底の風景

引揚船の船底で(写真提供=同館)

大地震でも無傷であった抑留者が建設したナヴォイ劇場

 前回紹介した戦後強制抑留コーナーの最後のところに、「今に残る抑留者の足跡」と題された縦長の一枚のパネルが置かれている。  抑留者が建設に従事した6つの建物が紹介されており、その一つに、中央アジアに位置するウズベキスタン共和国(ソ連崩壊の1991年に独立)の首都タシケントにあるナヴォイ・オペラ・バレエ劇場があり、次のように簡潔に説明されている。 「昭和41(1966)年のタシケント地震で7万8千棟の建物が倒壊したにもかかわらず、劇場は無傷であった」  このナヴォイ劇場に関して、少しだけ補足しよう。この劇場は、モスクワのボリショイ劇場などと並ぶ旧ソ連四大劇場の一つとされ、日本人の抑留者450名ほどが建設し、終戦の2年後に当たる1947年に完成した。地震で崩壊しなかったこともあり、現地では日本人の高い技術力が評価されており、ウズベキスタンの大統領は1996年、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した。こうした経緯があり、日本とウズベキスタン両国は友好関係にある。  シベリア抑留は、悲惨以外の何物でもないが、「劇場は無傷であった」というさりげないパネルの説明文に、心が休まる思いがした。

おむつで作った子ども用ワンピース

 さて、三つ目のテーマである海外からの引揚げコーナーである。ここには、「引揚船の船底で」と題した展示がある(冒頭写真)。  終戦1年後の昭和21年7月、旧満州の島から出港して福岡県の博多に向かう白竜丸の船底を再現している。  引揚船では食事が支給され、この船ではご飯とみそ汁、たくあんが出された。満州での避難所や収容所では、十分な食事をすることができなかったので、引揚者にとっては大変なご馳走だったという。左側の無邪気に食事をとる子供と、右手前の、恐らく子供の遺骨を抱えている母親とおぼしき姿の対比が胸に迫る。  また「おむつで作った子ども用ワンピース」が展示されている(左下の写真)。

おむつで作った子どもようワンピース(写真提供=同館)

 これについて、前述の『見学ノート』には、次のように記している。 「このワンピースの持ち主は、家族4人で満州に住んでいました。父親は軍隊に入って行方不明となり、ソ連軍が攻めてくると、母親は小さな娘と赤ん坊を連れて引揚港を目指して逃げました。親子は北朝鮮北部の収容所で1年を過ごしましたが、乳もでず、ミルクも手に入らず、赤ん坊は亡くなってしまいました。いよいよ帰国が決まると、母親は、娘にはきれいな服を着せてあげたいと思い、亡くなった赤ん坊のおむつでこのワンピースを作ったのです」  ソ連による強制抑留者を除き、軍人・軍属の復員、民間人の引揚げは昭和20年9月から始まり、翌年以降、本格化していった。一方、ソ連本土からの引揚船がナホトカ(ロシアの極東)から舞鶴(京都府の日本海側)に初めて到着したのは昭和21年12月であったが、引揚最終船が舞鶴に入港したのは昭和31(1956)年12月であった。終戦から実に11年余が経過していた。  平成27(2015)年10月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)が所蔵するシベリア抑留の資料570点を「世界の記憶」(旧称は世界記憶遺産)に登録した。(続く) (取材・文=育鵬社編集部M)
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