【連載小説 江上剛】銀行にも妻にも誰にもバレずに年月は過ぎ……麗子の婚期も過ぎていた【一緒に、墓に入ろう。Vol.4】

「この曲は?」 「ブラームスの交響曲第四番。のびやかで華やかで、ブラームスの最高傑作といわれているのよ」 「ブラームスってドイツの作曲家でベートーベンと並び称される人だね」 ステーキが程よい焼き上がりだ。肉が柔らかくて甘い。表情が緩む。 「いい肉でしょう? やっぱり松坂肉よね。元気、出るでしょう?」 麗子が自信ありげな微笑を浮かべた。 「そうだね。肉を食って、麗子に襲いかかるかな」 俊哉は両手を大きく広げた。 「止めてよ。今は、食事を楽しんで」 麗子は、体を捩って俊哉を避けた。 「そういえばさ、麗子はお墓はあるのかい?」 俊哉が肉を口に運ぶ。肉汁が口中に満ちて来る。 「ないわよ。なぜそんなこと聞くの? 縁起でもない」 「今日、経営会議で霊園開発プロジェクトのことを質問されたんだよ。頭取から、実家に墓があるが、そこに入るわけにはいかないから開発を急いでくれ、自分も買うからみたいなことを言われてさ。役員たちの三分の一くらいしかこっちに墓がないんだ。墓のある奴はだいたい東京や東京近郊出身でさ。まあ、おぼっちゃんじゃないのかな。先祖の墓があるのはね」 俊哉はコーンポタージュスープを飲む。子どもの頃、母親がどこから調達してきたのか分からないが、キャンベルのコーンポタージュスープを温めて、飲ませてくれた。その味は感動的だった。なんて表現したらいいんだろうか。都会の味。外国の味。憧れ。早く偉くなってこんな美味い物を毎日食べるぞと密かに誓ったのが懐かしい。母親は「おいしいかい?」と優しく微笑んでいた。今でもコーンポタージュスープを飲むと、その時の母親の笑顔を思い出す。 「銀行の役員ってお年寄りが多いからお墓が気になるんでしょうね。私はどうしようかな」 「そうでもないよ。麗子の時より役員も部長も随分、若返っている。でも五〇歳とか六〇歳とかになると、親のこととかいろいろ面倒なことが増えるだろう? そんな年齢なのさ。ところで麗子は、北海道に墓はないの?」 「実家の方は、もう兄が継いでいるしね。お墓はあるけど、まさか私がそこに入るわけにいかないじゃない。故郷は遠きにありて思うもの、そして悲しく歌うもの、室生犀星、純情小曲集でした」 肉を大きく切って食べる。 「美味しいわ。今度、これお客様に出そうかしらね」 「じゃあ、どうするのさ」 肉をフォークに刺したまま聞く。 「どうするって、何を」 麗子は、コーンポタージュスープを飲む。「このスープに子供の頃の思い出があるって、俊哉さんも変な人ね」 「お墓さ」 「えっ、まだお墓の話? 俊哉さんとさ、どこかの海に一緒に撒いてもらうとかさ、どう?」 麗子が小首を傾げる。首のあたりに皺が寄っている。年齢は首に出るというが、長い付き合いの証拠だ。 「散骨か……」 俊哉は呟く。 <続く> 江上剛作家。1954年、兵庫県生まれ。77年、早稲田大学政治経済学部卒業。第一勧業(現みずほ)銀行に入行し、2003年の退行まで、梅田支店を皮切りに、本部企画・人事関係部門を経て、高田馬場、築地各支店長を務めた。97年に発覚した第一勧銀の総会屋利益供与事件では、広報部次長として混乱収拾とコンプライアンス体制確立に尽力、映画化もされた高杉良の小説『呪縛 金融腐蝕列島II』のモデルとなる。銀行在職中の2002年、『非情銀行』でデビュー、以後、金融界・ビジネス界を舞台にした小説を次々に発表、メディアへの出演も多い。著書に『起死回生』『腐食の王国』『円満退社』『座礁』『不当買収』『背徳経営』『渇水都市』など多数。フジテレビ「みんなのニュース」にレギュラーコメンテーターとして出演中(水~金曜日)
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