古墳時代の史跡・森将軍塚古墳が面白い(2)――初代・科野国造は建五百建命

11年の歳月をかけて保存整備された森将軍塚古墳

信濃国総社といわれる科野大宮社の創建者は


 本連載の1回目で記述した通り、古事記では科野と記されているように、信濃は古代、科野と表記されていた。それが、百科事典などによれば713年(和銅6)の「好字令(制)」(好ましい字を用いなさいという勅令)により信濃とされ、明治以降は長野県と呼ばれるようになった。

 長野県千曲市が運営する「科野の里歴史公園」は、原始・古代の時代を再現しているため、信濃ではなく科野という名称にこだわりを持っているのだろう。正しいこだわりである。

 科野は、歴史用語や神社の名前にも残っている。

 科野国造(しなのくにのみやっこ)という用語がある。国造とは、大化の改新以前の日本の行政機構の用語であり、大和朝廷よりその地域を治めるように任命された役職である。

 初代・科野国造は、建五百建命(たけいほたけのみこと)と言われ、この命は、神武天皇と大国主命の娘・伊須気余理比売(いすけよりひめ)との間に産まれた皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫であるという。

 他方、長野県上田市に科野大宮社(おおみやしゃ)という信濃国総社(そうじゃ)と言われる由緒ある神社があり、第10代崇神(すじん)天皇の御世(3世紀から4世紀初め)に、この初代・科野国造である建五百建命の創建と伝えられている。

 さて、脇道の話が長くなってしまったが、本題の森将軍塚古墳についてである。

古墳からの眺め――眼下には善光寺平が見渡せる


 この古墳は、平野部から130mほどの小高い尾根の上(標高は490m)にあり、今から1600年ほど前の古墳時代前期、4世紀中ごろに造られた長野県下最大の前方後円墳で、全長は100mほどある。

 後円部の中央には、古墳の主を埋葬する竪穴式石室が設けられ、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの長大なもので、日本最大級の規模である。

 ここに木棺(もっかん)が納められ、大きな石で蓋をして、さらに平石や砂利で埋め尽くされる。

 この竪穴式石室が発掘調査され、その実物大の精密な模型が、森将軍塚古墳館に展示されている。当時の石室の様子が精密に再現されており、見事である。

 なお、この古墳館から森将軍塚古墳までは、歩いて20分ほどの小高い山道である。また、古墳見学バス(有料)が随時、出ており、これを利用すれば、ものの5分ほどで到着する。

 古墳に降り立てば、眼下に善光寺平(ぜんこうじだいら=長野盆地)が見渡せる。晴れた日には、遠く戸隠(とがくし)連峰や北アルプスを眺められるという。

 この古墳に埋葬されている者(被葬者)は、生前、この高台を好んでいたのではないかという思いに駆られる。善光寺平に広がる実り豊かな田畑を見て、民に思いを寄せていたのではないか。(続く)

(文責=育鵬社編集部M)




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