古墳時代の史跡・森将軍塚古墳が面白い(3)――長野県下、最大の前方後円墳の謎

古墳館の展示解説パネル「盗掘穴から石室を観察」

一番古い記録が明治16年の報告という不可解


 では、森将軍塚古墳の被葬者は誰か――という点である。その古墳名から森将軍という人と素朴に思う人もいるかもしれないが、これは不正解。

 森とは、この古墳がある地区名であり、その土地の有力者の墓を将軍塚と呼んできており、この名前がついているに過ぎない。

 この森将軍塚古墳に関する一番古い記録は、明治16(1883)年に「屋代(やしろ)村の将軍塚」と報告されており、それ以前のことは分かっていないという。大正12(1923)年に刊行された『長野縣史蹟名勝天然記念物調査報告書』で「森将軍塚」と報告され、以後、この名称になったという(『千曲市森将軍塚古墳ガイドブック』より)。

 長野県下で最大の前方後円墳であり、その竪穴式石室は日本最大級であるこの古墳の言い伝えが、明治16年以前は分からないというのは、実に不思議な話である。

古墳時代と空白の4世紀


 この古墳は、先にも記したように発掘調査により古墳時代前期、4世紀中ごろに造られたことが明らかになっている。確かにこの時代は、中国の歴史文献において倭国(日本)に関する記述がなく、また、日本も一般的には文字を用いていなかったため、「空白の4世紀」と呼ばれ、大和朝廷の成立などに関して詳しいことは分かっていない。

 しかし、その後は、日本でも漢字を用いて歴史を刻み始め、例えば埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「辛亥(しんがい=471年)」「獲加多支鹵大王(ワカタケルおおきみ=雄略天皇)」と記されていたりする。

 一説によれば、漢字は4世紀末から5世紀にかけて日本で本格的に用いられ始めたという。森将軍塚古墳は、大規模な古墳の造営作業である。さらに、古墳の周囲には、13基の小さな円墳のほか、小さな石棺などが多数発見されており、それらは古墳の完成後に埋葬された子孫や縁者の墓と考えられているという。そうならば、少なくとも4世紀末ごろまでは、造営にかかわった人々の記憶が鮮明であったのではないか。

 それならば、その後の地誌的な文書に何らかの記載があってもおかしくないのだが、改めて不思議に思う。そして、突如として明治16年に「屋代村の将軍塚」と報告されるのも不可解だ。

信州で有名な「塚掘り六兵衛」


 一方、信州では有名な「塚掘(つかほり)り六兵衛」なる人物がいる。江戸時代の終わりころに生まれ、明治41(1908)年に72歳で亡くなった。本名は北村六左衛門、現在の長野県千曲市土口(どぐち)で暮らしていた。

 古墳を盗掘しては掘り出した副葬品を売り、酒を買い飲んでいたようである。前掲のガイドブックによれば、「米一升が10銭の時代に、(盗掘した副葬品の)勾玉一個が15銭」というから、いい稼ぎをしていたようだ。

 この塚掘り六兵衛が、明治38年ごろ(一説には明治36~37年ころとも)、この森将軍塚古墳を堀に行ったところ、「すでに盗掘されており、何も持ち出せなかった」(前掲のガイドブック)という。

 こうした塚掘り(盗掘)者は、どのようにして古墳の存在を認知していたのか、興味が尽きない。(続く)

(文責=育鵬社編集部M)




関連記事