旧石器時代「岩宿遺跡」発見の人間模様(3)――岩宿ドームと相澤忠洋像

岩宿遺跡の真向かいにある「岩宿ドーム」 この中に旧石器が発掘された実際の赤土層が展示されている

満足できた岩宿ドームの展示

 岩宿博物館を見学して何かピンと来ないと思いながら、博物館から600mほど離れたところに実際の岩宿遺跡があり、その道路を挟んだ真向かいにある岩宿ドーム(史跡岩宿遺跡保護観察施設)を訪れた。  この施設は、実際に発掘された関東ローム層の断面が風化によって崩壊するのを防ぐためと、史跡の活用を図るために建設されたという。  ドームの中をくぐっていくと、岩宿遺跡の実際の地層をはぎとって作られた地層断面の大きな標本が展示されている。またアニメ映画が随時、上演され、岩宿遺跡と日本の旧石器時代を分かりやすく解説していた。  ここは、満足できた。前回述べたマンモスゾウの全身骨格の展示よりも、これが岩宿博物館のメインステージにあれば、見学者はスムーズに旧石器時代にタイムスリップできたように思える。  岩宿遺跡が国指定史跡となったのが昭和54(1979)年8月、この岩宿ドームの開館は平成2(1990)年1月であり、岩宿博物館(旧、笠懸野岩宿文化資料館)の開館は、その2年9か月後の平成4年10月だ。  予算消化のための行政のしがらみなのかは知らないが、同種の展示施設が二つあるのは実にもったいない話だ。あえて岩宿博物館側に好意的な見方をすれば、すでに岩宿ドームが開館していたので、その重複を避けるためにマンモスゾウの全身骨格を展示したとなるのだろうか。それにしても、ちぐはぐだ。

相澤忠洋像に刻まれた芹澤長介の銘文

 岩宿ドームの見学を終えると、すぐ横に立派なブロンズの胸像が見えた。「相澤忠洋像」と記されている。そう、岩宿遺跡を発見した青年、相澤忠洋(あいざわ・ただひろ、1926~1989)の像である。  彼がこの地で発見した、黒曜石の石器である槍先型尖頭器を手に持ち見つめている構図となっている。  その胸像の正面から右の台座には、東北大学名誉教授・芹澤長介(せりざわ・ちょうすけ、1919~2006)が揮毫した銘文が刻まれている。その抜粋を以下に記す。 「相澤忠洋は昭和二十一年十一月、群馬県新田郡笠懸村の切通(きりどおし)道で黒曜石片の散布を認め、さらに同二十四年七月、同所の関東ローム層中に包含されている黒曜石製尖頭器を発見した。同年九月十一日、相澤忠洋……杉原荘介……芹澤長介の六名によって反対側崖面の試掘が行われ、関東ローム層の上層から石器六点……が出土した。ここに岩宿遺跡が誕生し、日本における旧石器時代の存在がはじめて確認されたのであった。同年十月、明治大学考古学研究室による第一次調査が実施され……」(人名の太字は、引用者による)  簡潔にして要を得た優れた銘文である。この昭和24年9月の試掘当時は、杉原荘介(1913~1983)は明治大学の助教授、芹澤長介は明治大学の大学院生という関係であった。  この胸像の除幕式は、当初は平成13(2001)年5月の相澤の命日を予定していたが、笠懸町教育委員会と設置場所について意見の相違があり、命日に間に合わず同年9月になったという。いささかギクシャクしていたのだろうか。  なお、芹澤の人名表記に関しては芹沢と表記するケースが多いため、その表記にする。(続く) (文責=育鵬社編集部M)
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