旧石器時代「岩宿遺跡」発見の人間模様(4)――人が住んでいなかったと言われた赤土層から

岩宿遺跡から北方約7キロの小高い雑木林の中にある「相澤忠洋記念館」 訪問当日は雨が降っていた

執念を感じさせる相澤忠洋記念館の展示


 その後に向かったのは、この岩宿遺跡から北方約7キロ、群馬県桐生市の小高い雑木林の中にある「相澤忠洋記念館」である。東武桐生線「赤城駅」からは約4キロで、タクシーで10~15分ほどの距離だ。

 この記念館は、相澤が研究と生活の拠点としていた「夏井戸埋蔵文化財収蔵庫(別称=赤城人類文化研究所)」を改造して、彼が亡くなった2年後の平成3(1991)年春に開館した。

 ここには、彼が発見した岩宿遺跡からの出土品「槍先形尖頭器」をはじめ、赤城山麓の遺跡から発掘した石器や、自筆原稿、書簡や写真などを展示し、その生涯と業績を知ることができる。館長は相澤千恵子夫人が務めており、名誉館長は芹沢長介であった。

 見学当日は、館長の千恵子夫人はあいにく不在であったが、代わりの方が応対してくれた。

 入館するとまず、「太古への夢、岩宿遺跡」(岩波映画社)のVTRを見せてもらえる。相澤忠洋の旧石器発掘にかけた執念、さらに芹沢長介との交流がよく分かった。岩宿博物館でも、このVTRを放映したり、ここにある展示品を紹介するコーナーを設ければよいのにと単純に思うのだが、そうもいかない事情があるようだ。

 館内には、相澤が納豆売りなどの行商に用いていた自転車の同型車が展示されている。電車賃を切り詰めたかったのであろう。この自転車で相澤は、東京の考古学者に会いに行くために、群馬県桐生市から東京までを片道9時間をかけて通ったりした。

戦前の考古学界にあった「強い思い込み」


 片道9時間かけて東京に通う相澤の執念は、すさまじいものがある。

 本連載第3回目の芹沢が揮毫した銘文にあるように、昭和21(1946)年11月、相澤が20歳の時であるが、群馬県新田郡笠懸村の切り通しで、赤土(関東ローム層)の崖の中から黒曜石の石器を3点発見する。さらに昭和24年7月、同所の関東ローム層中に包含されていた黒曜石製の槍先型尖頭器(石槍に用いられる打製石器)を発見した。

 しかし、当時の考古学界、地質学界などにおいては、明治以降、「赤土層には石器などの遺物はない」という通念が支配していた。

 赤土層とは、火山灰が堆積した地層である。一万数千年以上前の日本では、富士山や、鹿児島県桜島一帯などの火山の爆発で火山灰が降り注ぎ赤土層が形成され、その時代は草木も生えず、動物や人も生きていけない「死の世界」と考えられていた。

 そのため、発掘調査も黒土層を掘り進め赤土層が出てくれば、そこで打ち切られてしまい、日本には縄文時代以前の旧石器時代はなかったという「強い思い込み」が学界を支配していた。

 あえて当時の学者たちを弁護するとすれば、赤土層は酸性地質で人骨や獣の骨は溶けてしまい残っていないため、そこに人類の形跡が見られない以上、遺物もないと考えたのは、やむを得なかったとも言える。

 そのような通念が支配していた状況にあって、相澤が発見した石槍に用いられた黒曜石製の槍先型尖頭器(打製石器)は、まさにその赤土から出てきたのだ。赤土層の時代は、死の世界ではなく、日本列島にも人類が存在し、旧石器時代が存在したことを相澤は確信した。

 しかし、無名の在野の研究者の発見を誰が信じてくれるだろうかと思い悩んでいた。(続く)

(文責=育鵬社編集部M)




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