【連載小説 江上剛】会うたびに「お父さんと同じ墓に入れてね」と言うのが口癖だった母……【一緒に、墓に入ろう。Vol.10】

メガバンクの常務取締役執行役員にまでのぼりつめた大谷俊哉(62)。これまで、勝ち馬に乗った人生を歩んできたものの、仕事への“情熱”など疾うに失われている。プライベート? それも、妻はもとより、10数年来の愛人・麗子との関係もマンネリ化している。そんな俊哉が、業務で霊園プロジェクトを担当している折、田舎の母の容体が急変したとの知らせを受ける。
順風満帆だった大谷俊哉の人生が、少しずつ狂い始める……
「墓じまい」をテーマに描く、大人の人生ドラマ――

第二章 母が死んだ……Vol.10

母が死んだ。享年86歳。安らかな死だった。
父の俊尚はすでに十年前に亡くなっている。
仲の良い夫婦だった。父も母も同じ昭和6年羊年の1月生まれ。父の方が一週間だけ早く生まれている。
二人が生まれた昭和6年というのは酷い年だった。1931年だから、その二年前、1929年にアメリカで株価が大暴落した。いわゆるブラックチューズデイ(暗黒の火曜日)とかブラックサースデイ(暗黒の木曜日)とか言われる日だ。
株価が暴落した日によって呼び名が変わるようだが、どんな呼び方をしようと構わないが、世界経済に大きな影響を与える大変な事態だった。
経済なんていうものは、昔も今も変わりはしない。多少、今は経済に厚み、すなわち政府や企業、個人が財産を蓄えているので、経済危機に対する耐性があるだけだ。
なぜ1929年にアメリカで株価が大暴落したかと言うと、やはりバブルの崩壊だった。当時、アメリカは第一次世界大戦景気に沸いていた。
戦争で疲弊したヨーロッパと違い、アメリカは彼らを援助することで戦後景気に酔っていた。しかしそんなものはいつまでも続くはずがない。ドイツに貸した融資などが、焦げ付き始めると、熱くなった景気は一気に冷え、バブル崩壊となった。
そのころ日本も同じように第一次世界大戦後の不景気に苦しんでいた。日本では1923年(大正12年)に起きた関東大震災の被害も引きずっていた。
戦争中は、遠い欧州の戦争だったため日本は直接的な被害がなく、物資を供給する立場で、大儲けした。ところが戦争が終わると、景気は一気に冷え込み、膨らみ過ぎた経済を引き締めようと、当時の浜口雄幸内閣は、金本位制に戻すという金融引き締め策を講じた。いわゆるデフレ政策だ。
痛みを分かち合えば、いずれみんなよくなる……。
どこかで聞いたようなセリフだが、国民はそれを信じた。
ところが金解禁という金本位制に戻る政策を実施に移した時が、アメリカの株価大暴落と重なった。日本はたちまち大変な不景気になり、それは昭和恐慌という未曽有の事態を引き起こした。銀行はバタバタと倒れ、会社は軒並み倒産し、農家は貧困に窮し、若い娘たちは身売りされ、苦海に身を落とした。
首相の浜口雄幸は東京駅で右翼の佐郷屋留雄に銃撃され、翌年、死去。内閣は犬養毅が率いることになり、蔵相高橋是清は金解禁を再び禁止し、積極財政に転じた。しかし、悪く転がり始めると、歴史とは人の力では止められないのだろう。これが軍部を強くしてしまい、対外戦争で活路を見出そうと考えた軍部は、父母が生まれた昭和6年に南満洲鉄道を爆破する柳条湖事件を引き起こし、それが満州事変へと拡大することとなる。日本はそれからずるずると敗戦の昭和20年まで戦争時代に突入することになる。

もちろん父は戦争に行ってはいないし、母は身売りされたわけではない。
兵庫県の丹波と言われる田舎で空襲もなく暮らしたわけだが、親戚の中には、例えば母の兄などは戦死している。周囲に戦争と死が絶えず付きまとう子供時代を過ごしたのだ。
戦後、二〇歳を過ぎてから父は、農業を営む傍ら農協に職を得ることができ、そこで母と出会い結婚した。
実家の住居には、祖父や祖母、そして父の兄弟まで同居していた。厳しい祖母の下で母は、我慢に我慢を重ね、俊哉と清子の二人を育て上げた。
苦労したのだろうが、それを語ることはなかった。
俊哉が高校生の時に、祖父母が続いて亡くなり、姑から解放され、ようやく母は落ち着いた暮らしを取り戻した。

父は、真面目に農協で働き、遊びも知らなかった。母と一緒に、夕食時の晩酌だけが楽しみのような人だった。
父が亡くなった時、母は、号泣した。初めて見る母の泣く姿に俊哉は動揺した。そして父と母が本当に愛し合っていたのだと知り、羨ましいと思った。
それから母は、一人で暮らしていたが、会うたびに「お父さんと同じ墓に入れてね。あの人の世話をしないといけないから。今、あの人、一人で身の周りのことちゃんとできているんやろか」というのが口癖で、俊哉は何度も同じことを聞かされた。
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葬儀を終えてもずっと憂鬱そうな妻・小百合の様子が気になる俊哉……

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