【連載小説 江上剛】病室で母が、息を引き取る間際に言ったこと……【一緒に、墓に入ろう。Vol.11】

桜の下で麗子と抱き合う妄想を、妻の言葉がかき消す……「私の話、聞いてるの?」

「その歌、有名だから私でも知っているわよ。ボケないでね。桜と死というイメージがつながるってわけね」 「まあ、そうだな」 せっかく知識を披露しようとしたのに、ボケないでねと言われてしまえば、全く形無しだ。 俊哉は、自分は作家のように桜と死とを結びつけたりはしない。むしろ桜の下で女と溶け合うほど裸で抱き合ってみたいなどと、俗っぽい妄想を逞しくしている。そんな自分がボケているはずがないではないかと反論したくなったが、せっかく小百合が気分を良くしているのに水を差してしまいそうなので、押し黙った。 「あなた……」 「うん?」 小百合が睨んでいる。 「私の話、聞いてるの?」 「ああ、聞いてるよ」 「せっかく話し始めたのに急にぼんやりと明後日の方向を見てるんだもの。あなた最近、ボケ始めているんじゃないの。ボケてもいいけど、絶対、面倒見ないからね」 厳しい表情。本気だ。 「ボケ、ボケって言うなよ。だから何の話だっけ?」 ちょっと首を傾げる。 「だからあなた何も聞いてないじゃないの。私の話、何も聞いてないんだから」 「謝るからさ。ちょっと仕事のことを考えていたのさ」 「あなたのお母さんの葬式でしょう? 仕事のことなんか考えないでよ。私は、友達を裏切ってまで来たんだから」 怒りが収まりそうにない。最近、怒り出すと止まらない。 「聞くからさ、なんの話?」 穏やかに聞く。 「だからね、お母さんが亡くなる寸前に私の手を握ってね」 小百合が自分の手を合わす。そういえば珍しく母澄江が小百合の手を持っていたと思った。普段は、決して折り合いが良くない二人だが、さすがに死を前にして、和解したのかと少しうれしく思った。 「俊哉と仲良くして、お墓を頼みますね。私とお父さんを寂しい思いにさせないでね、っておっしゃったのよ」 「それで?」 「私、意味、分かったような分からないような気持ちになったけど、『ハイ』って答えたわ」 「良かったじゃないか。おふくろも安心して逝ったと思うよ」 「なにが安心して逝ったと思うよ、よ。あなた気楽ね。お母さん、私にそれを告げる時だけ、なんだか目力が出てね。私をこうして」 小百合は、目を細めて眉根を寄せ、いかにもきつい顔で私を見つめた。 「ぐっと睨んだのよ。許さないって顔ね」 「許さないって何を?」 「だから墓を守らないと許さないって顔だったわ。私、気分、滅入っちゃって」 小百合が肩を落とす。 「何をそんなにがっくりしているんだ。おふくろは、親父と一緒に埋葬してくれって言っていたから、そこへ納骨すればいいってことだろ? それを頼んだんじゃないのか」 俊哉はあいまいな笑みを浮かべた。何をそんなことで深刻な顔をしているんだという思いだ。 「そうかしら? あのお母さんの視線はそんな甘くはなかったわ。なんだか暗くて、険しくて、この世に思いを残すって感じ? ただ単にお父さんと一緒に埋葬してくれって言うだけじゃなかったわね」 小百合は暗い目で俊哉を見つめる。 <続く> 作家。1954年、兵庫県生まれ。77年、早稲田大学政治経済学部卒業。第一勧業(現みずほ)銀行に入行し、2003年の退行まで、梅田支店を皮切りに、本部企画・人事関係部門を経て、高田馬場、築地各支店長を務めた。97年に発覚した第一勧銀の総会屋利益供与事件では、広報部次長として混乱収拾とコンプライアンス体制確立に尽力、映画化もされた高杉良の小説『呪縛 金融腐蝕列島II』のモデルとなる。銀行在職中の2002年、『非情銀行』でデビュー、以後、金融界・ビジネス界を舞台にした小説を次々に発表、メディアへの出演も多い。著書に『起死回生』『腐食の王国』『円満退社』『座礁』『不当買収』『背徳経営』『渇水都市』など多数。フジテレビ「みんなのニュース」にレギュラーコメンテーターとして出演中(水~金曜日)江上剛
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