大手術が終わった[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第25話)]

ICU

「CCU(冠疾患集中治療室)、慈恵医大病院には6床あるが、心疾患患者の命綱だ」

手術のあとさき  仕切り直しの手術(2016年4月25日)には、気を強くして臨んだ。しかし、全身麻酔の注射を受けた後は全く記憶にない。手術だけで9時間近くに及んだ。  その後はICU(集中治療室)に移されたらしい。ICUと似た施設にCCU(冠疾患集中治療室)がある。CCUとは冠動脈疾患など心臓病の患者を専門に集中治療するところだ。  ともに命綱となる医療施設である。ボクは自分の病状を楽観視したことはないが、こうした施設が整っていることは安心材料だった。  ICUでは、連れ合いと次弟が待っていたとのことだが知る由もない。麻酔が効いていたためなのか、手術の衝撃なのか。  弟が「兄貴はまるで死んだようだ」と言ったということを後日聞いた。この日のことはボクの記憶から抹消されている。  26日、ICUで目が覚めた。というか意識が戻ってきた。点滴や導尿管などでスパゲッティ症候群になっている自分の姿が目に入った。このあたりから記憶機能もだいぶ回復した。  連れ合いが来てくれた。どんな会話を交わしたかは覚えていないが、「ありがとう」くらいは言ったと思う。看護婦さんに自分で排尿するように言われ、尿瓶をあてがった記憶はある。備忘メモには「傷口が痛む」とあった。 「臥せば座せ 座せば立てとのリハ心」  27日、ICUからストレッチャーで寝かされたまま、心臓外科の病棟に戻り、そのままの恰好でベッドに横臥された。  しばらく寝ていたら、心リハのスタッフが来室し、「寝ていないで、起きてベッドの端に座りなさい」という。座るだけでも運動になるという。  こちらは開胸手術を受け、間もないし、点滴管も付けており、起き上がる気もしない。「鬼のようなことを言う」と思った。  しかし、後日、思い直して次のようなざれ歌を心リハ室のリーダー藤田吾郎理学療法士に送った。 「臥せば座せ 座せば立てとのリハ心 愛宕の里のホスピタル」  愛宕というのは慈恵医大病院のある辺りの地名である。  この日、腫瘍血液内科の斎藤健先生が来室し、「心臓が片付いたら、血液の方をやりましょう」と言われた。斎藤先生は手術前、「溶血性貧血と思われるが手術には差し支えない」と言ってくれた。 「心臓が片付いたら」という言葉に「一山超えたんだ」と安堵した。しかし、術後の様子は思わしくない。  28日、この日のメモには次のような記述がある。 「儀武先生チーム御一同が来室、よい顔色だ、と言われた」 「泌尿器科の佐々木先生来室」 「ナースのYA(宮崎出身)さんと病棟廊下2周。同じ苗字のYAさんというナースは長崎出身、水分は無理して採る必要はないけど、採った方がいいですね、とのこと」 「食欲が全くない。管理栄養士の福士さんが『メイン』という栄養ドリンクを食事に付けてくれ、何とか飲み干した」 気力喪失  また「淳ちゃん来訪、気持ちが楽になった」ともある。忙しいとは言いつつ、連れ合いも連日来てくれる。単純にうれしいが、これで亡妻のときと同様、家庭では頭が上がらなくなると心の中でつぶやく。  29日、利尿剤、不整脈や狭心症の薬、胃腸内分泌抑制薬を服む。  30日、心臓外科阿部先生たちが来室し、体液や不要血液を排出するため胸に刺していたドレーンを抜いた。  またこの日初めて心リハ室に赴き、リハビリを行った。自転車こぎのエルゴメーターに挑戦したが2分で気持ちが悪くなり、中断した。途中の計測で上の方の血圧(収縮期血圧)が70台とのことで、低血圧の影響だと思う。  しかし、食欲も皆無、脱水症状も来していた。情けなくなる。部屋に戻っても、テレビを視る気もなく、本を読む気もしない。  ナースのMIさん、Tさんが見えるが病状のことだけで話が弾まない。亡妻のことを考える日が続くようになる。 体力がなくなると、心まで弱くなる。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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