鬱にはなりたくない[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第26話)]

26榊

料理研究家・榊淑子さん。亡妻が心から慕った。

亡妻の鬱を思い出す  耳学問レベルの心疾患患者として、ボクには心配ごとがあった。というのは重篤な心疾患患者の20~40%は鬱になるとものの本にあったことである。鬱にはなりたくない。  ボク自身も亡妻の鬱に悩まされたことがあった。40歳のころ、彼女はアンへドニア(快体験不能)に陥って、しばらくの間、感動することを忘れ、笑いを失った。ボクとの会話も成り立たない。  子供はいなかったが、そのうち世間との関わりを忌避し始めた。周囲は心配してくれた。ボクは「自分も調子が悪いんだ」ということにして、二人で一緒に精神科のクリニックのお世話になることにした。  ところがクリニックの先生とはよく話をしたようだ。時には一時間近くカウンセリングを受けている。先生が医療者の使命をわきまえており、聞き上手でもあったようだ。  彼女の後、ボクが形の上でカウンセリングを受けるのだが、これは3分くらい。ボクは先生から彼女の様子を聞くのを常とした。先生からもボクの対応について、時には忠告もあった。  そんなあるとき、彼女が敬愛する知り合いの料理研究家・榊淑子さんが京都保津川の川下りに誘ってくれて、夫婦で行をともにした。そんな川下りの最中、舟を操る船頭さんのひょうきんな姿が面白いと言って彼女が笑ったのである。  笑いを忘れて半年くらい経っていただろうか。事情を知っている榊さんも喜んでくれたし、ボクは目頭が熱くなった。やっと「彼女」が戻ってきた。同時にクリニックの先生にも感謝した。先生の忍耐強いカウンセリングがなかったら、どうなっていたかわからない。  その後、彼女はアンへドニアからも解放され、夫婦の生活は新婚時の再現に近いものがあり、国内旅行、海外旅行にもよく出かけた。こうした体験から、病状改善を目指すためには医療者と良い関係を保ち、よいコミュニケーションが不可欠だと信じていた。 看護婦さんとの会話で助かる  鬱予防のためには周囲への関心を維持することである。ここは病院だから看護婦さんの名前をしっかり覚え、会話を膨らまそうと考えた。  慈恵医大心臓外科入院病棟には20数人もの看護婦さんがいる。看護婦さんの勤務は3交代制のようで、入れ替わり立ち替わり違う看護婦さんが現れる。マスクをしている看護婦さんも少なくない。  看護婦さんは左胸に名札を付けているのだが、板ガムのように、細長いもので、だいたい下を向いている。なかなか読み取れない。名札ばかり凝視するのは憚られる。  看護婦さんと会話を交わすときにもアイコンタクトを大切にするのだが、その間もちょっと名札をチラ見して名前を頭に叩き込む。  中には自己紹介する看護婦さんもいたが、それはゆとりのある平時のときで、ナースコールで飛んでくる看護婦さんとはすぐ「どうしました?」で会話が始まる。  ボクは看護婦さんが去った後、必ず名前と処置と会話の内容、体形、メガネの有無、ヘアスタイル、どんな有名人に似ているかなどをメモにした。次にその看護婦さんが見えたとき、さりげなく会話の中に名前を入れて親近感を演出した。  それによって看護婦さん側の対応がどう変わったか、判断には難しいものがあるが、気のせいか「親身になってくれている」という実感は持てた。入院生活が重苦しく感じなくなり、鬱へのこわさも忘れかけた。時に場違いに笑ったこともある。  しかし、70歳後半になって、若い女性の名前を覚えることはそう簡単ではない。長い付き合いならいざ知らず、何日間も会わない看護婦さんもいる。それでも名前を覚えるために、出身地や出身学校、趣味、勤務歴などをそれとなく聞き出す。やりすぎるとストーカーになってしまうから要注意だ。  退院後ボクのメモを見たら、心臓外科以外の部署も含めて30人近くの看護婦さんの名前があった。そのせいか、おおむね顔と名前は一致した。  名前入れ込みの会話ができたことで、多くの看護婦さんと実りある会話ができて、極端な無感動症や鬱に陥ることもなかった。 落ち込んだ時に現れた亡妻  しかし、「こんな状態が続くとほんとに鬱になってしまう」と思う瞬間がなかったわけではない。手術後、食欲不振、脱水症状、血圧低下に襲われた。  この時はわれながら無気力になったと自覚した。「鬱になるかな」との思いも走った。こうした時に頭に浮かぶのは亡妻との思い出である。 身体こそ滅んだが、亡妻はボクの心の中で生きていた。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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