尿意不如意[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第27話)]

北里柴三郎

細菌学を通じて近代医学の前進に貢献した北里柴三郎。自分も病気になって改めて医戒の重要さを訴えた。

尿チェックでも亡妻を想う

 手術後4日、導尿管が外された。ペニスの先に延長コードをつなげるように、挿入されていたのだが、いつ、装着されたのか覚えていない。おそらく全身麻酔のときだと思うが、絶え間なく、尿は排出されていた。

 尿は小便という通り、体からの便りである。だから正しく計測、観察される必要がある。そのため導尿管が外された後は、自分で尿量と回数を記録しなければならない。記録は入院時から行っていたが、手術後は4月29日から再開した。

 本来、計量カップで測るのだが、この日は6回で、総量670㏄、30日は13回で800㏄、5月1日は13回で730㏄。いずれも尿色はどす黒い。この間は食欲が全くなく、水分を口にするのも大儀だった。

 健常者の回数と尿量は1日数回で計1000㏄~1500㏄だそうだから、ボクの場合、回数が異常に多いわりに量が少ない。

 1回20~30㏄などのときがあり、それでもすぐトイレに行きたくなる。そのため夜は1時間おきに目が覚める。ちょびっとしか出ない。まことに尿意不如意であった。

 ボクは亡妻が乳に発したガンが全身に至り、寝たきりになったとき、自分の実家でのターミナルケアを希望したので、ベッドサイドで毎日何回も彼女の尿チェックを行った。

 導尿管を振ったり引っ張ったりして計量袋に貯まる尿量を少しでも多くしようとしたことを思い出した。尿の量は病気のバロメータである。

気分最悪

 ボクには腎臓系の問題がないことは何回かの検査で証明されていた。にもかかわらず尿が出ない。毎日の記録表を見る限り尿量の少なさは歴然としている。

 そういう背景があって利尿剤を処方された。その結果、尿量は漸次増えていき、2日後には940cc、3日後には2290㏄を記録するに至った。体重も減った。尿は増えたが、脱水症状を起こしてしまった。

 引き続き食欲は不振、水分も採りたくない。血圧も低い。無理してリハビリの自転車こぎに挑戦したが、2分で気持ちが悪くなり、ストレッチャーに乗せられて病室にトンボ返り。

 気力を失いなにをする意慾もわかず、鬱の入り口に立ったかなと思った。テレビを視る意欲も、活字を目にする意慾もなかった。

 しかし、見舞客や看護婦さんと話しをしている時にはいくらか気分が晴れることもあった。気が張っていたせいだろう。絶食状態より何か口にした方がいいだろうということで、乳酸系のドリンクやスポーツドリンクを無理して飲んだ。

 その結果、血糖値が上がり、生まれて初めてインシュリンの注射をされるという余興もあった。自覚的な病状としてはこのころが最悪で、夢に亡妻がでてくることもあった。

いい加減な計測の報い

 この事態に至るにはボクには反省する点があった。尿量計測を適当にやっていたのである。血尿に近い褐色の尿をいちいちカップで確かめるのが嫌で、ちょびっと出たときは20cc、少し多めのときは30㏄などと大雑把に記録した。

 回数が多いわりに記録された尿量が少なかったのはそのせいだろう。そうしたいい加減な計測を看護婦さんにも言わなかったことが利尿剤につながったのかもしれない。いい加減な計測の事実は今でも病院には伝えていない。

 退院後しばらくして、病棟にあいさつに行ったとき、心臓外科の女医・成瀬先生に「これから暑くなっていくので水分を上手に採って脱水症状にならないように気を付けてください」と言われた。

 よくボクの症状と対策を覚えてくれていたものと有り難い思いをした。ただ、管理栄養士さんからは「なにか飲んで水分を採る場合1日の適正な摂取量は1000㏄~1500㏄ですから、採りすぎないように」とも言われている。もちろんビールなどはご法度である。

 人間の体とは不思議なものである。ボクなりに、利尿剤が効きすぎた脱水症状と判断しているが、これも身から出たサビである。

 退院後は病院の助言を守っている。そのせいか脱水症状になることはなかったが、「医師の言葉に従うのは患者の義務」(北里柴三郎)という医戒に背いた代償は小さいものとは言えなかった。

医戒厳守は病気回復の前提である。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。





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