亡妻との出会い[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第28話)]

パーティ―での亡妻

会社のパーティに駆り出された亡妻。お偉方に囲まれて緊張気味。左は藤本亨さん(のち長野放送副社長)、右は久野昌輝さん(のちテレビ西日本社長)

うつうつと鬱を恐れる

 手術後の数日間は全く体調が良くなかった。
 手渡されたリハビリのスケジュール表によると、5月初めには本格的なリハビリに入ってもいいころだ。それなのに食欲はなく、脱水症状をおこし、点滴と栄養ドリンクだけで命をつないでいる感じ。

 胸の傷が時々痛む。だるいとか気持ちが悪いとかいうことではないが、なにをする気もなく、うれしいことも楽しいことも思いつかない。あらゆる欲が失せ、ただぼんやりと時間が流れる。そのうちその流れすら大儀に感じる。

 熊本地震のその後が気になり、臥した状態でスマホをいじる。余震も続き、被害も拡大している。わが郷里八代郡氷川町にも関連死者が出たらしい。

 ついでに世間の動きをチェックする、円ドル相場が106円に急騰などのニュースが目に入る。でもボクの心は無反応だ。

 横になっていても疲れるばかりで、これが病気かと思うが、生きている意味を疑いたくなった。心臓疾患の40%は鬱になるという数字がちらつく。俺にもいよいよ鬱がやってくるのか不安になる。「死んだと同然」と思う日が続く。

 またまた、亡妻を思うことが多くなった。黄泉の亡妻が呼んでいるのか。睡眠薬を処方され、寝ているはずだが、夢とうつつの境目があいまいになってきた。

目に焼きついた女性

 亡妻は同じテレビ局で働らく社員だった。
 1966年秋口、総務局の部屋の片隅で人事部員と話をしている女性がいた。それまで見たことのないような上品で清楚な人だった。

 女性との付き合いのなかったボクも、結婚適齢期にあったので、こんな人が嫁さんになってくれたらいいなと直感が走った。あまり凝視するわけにもいかず、何回かちらっと見ただけだが、彼女の強いイメージが脳裏に焼き付いた。

 10月初旬、その女性が総務部文書にタイピストとして中途採用されたことを知った。総務部文書といえばボクが直前まで在籍していた部署。すれ違いに彼女が配属されたわけだ。

 当時、ボクは編成局制作室というところにいて交通遺児に関する年末特別番組を企画していた。その関係で地方自治体に制作協力依頼の書類をタイプする必要が生じた。ワープロもパソコンもない時代で、公的な文書は専門のタイピストに頼まねばならない。

 こうして彼女と話をする機会ができた。すぐタイプは出来上がった。送り仮名に原稿と違うところがあったが、間違いではないので、「まあいいです」と受け取ったが、彼女はどうしても原稿通りに直すという。

 今のパソコンのように一字だけ打ち直すのではない。全文を打ち直すのだ。「これでいいですよ」「いけません」とヤリトリしているうちに彼女の責任感の強さに打たれ、打ち直してもらった。

思い切ってデートに誘う

 そうしたことがお互いを意識させることになったのだろう。年が明け、1月15日(ボクの誕生日)、成人の日で休日だったが、番組制作現場はそういうことにあまり関係ない。

 ボクが出勤するとたまたま総務局では彼女が休日出勤していた。この時、ボクは改めてタイプのお礼を口にしながら、清水の舞台から飛び降りる思いで、デートに誘った。なんと、彼女はすんなりと了承した。

 21日、上野の喫茶店で会った。なぜ上野かというと、その足で動物園に連れて行こうと思ったからである。彼女はスラリとした体に黒いコートをまとっており、大人びた雰囲気があった。

「やっぱり見た目が9割」という本がある。この本は、人間関係において、非言語コミュニケーションが決定的な役割を果たすことを論じた本だが、まさにその通りで、見た目で「この人しかいない」と即決したボクの判断は正しかった。しかし、話してみると二人の間には様々な偶然の一致があった。

ツキは突然やってくる。そのときは「心に従え」である。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。





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