セレンディピティ万歳[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第29話)]

京子

元気なころの亡妻。時間があれば二人で旅行に出かけた。

熊本県人同士


 1967年正月、亡妻は22歳、ボクは27歳だった。当時としては結婚を考えても良い年頃である。ボクは漠然とそんなことを意識しながら、人生初めてのデートで心ここにあらずといった体だった。

 それでもコーヒーを口にし、彼女と会話を進めた。驚くなかれ、二人の間には偶然の一致が少なくなかった。

 まず、彼女の郷里は熊本県山鹿だという。ボクは熊本県八代だから、北と南の違いがあるが、同県人だった。

 熊本の人は同県人と会うとすぐに親近感がわき、長年の知り合いのような気持になる。たちどころに「肥後どこさ熊本さ」の世界になる。

 ボクらの間にもそういう空気が流れた。お互い熊本を離れて長いので肥後弁は出ないが、共通の空間が出来たようなものだ。

 さらに、すでに他界していたが、父君が陸軍士官学校のパイロットの教官だったという。ボクの親父は防衛大学の事務官だから、家庭環境にも通じるところがあった。

 また、彼女は文京区白山の東洋大学短大に通っていたが、ボクの出た大学はお隣の本郷である。もちろん通学時期には時差はあるのだが、この際そんな細かいことはどうでもいい。

 おまけに彼女の母親の誕生日はボクと同じ1月15日(ボクは昭和15年生まれ)、彼女自身は1月5日(昭和20年生まれ)だった。
 

セレンディピティを信じよ


 なぜこんなことをつらつら書くかといえば、ボクはセレンディピティということを信じるからである。1960年代にそういう言葉はまだ人口に膾炙されてはいなかったが、現象はいつの世も変わらない。

 慈恵医大病院とボクの関係も偶然に発したが、いまは命を救ってくれた病院である。「セレンディピティ」とは「偶然に思いがけない幸運を発見する能力またはそれを行使する力」などと定義される。これは誰にも与えられている力だが、問題は行使する気持ちがあるかないかである。

 ボクは思いがけなかった偶然に感謝し、次のデートを2月11日の建国記念日にボクの住まいの近く、葉山に誘った。もちろん彼女に異存はなく、その葉山の海岸で婚約してしまった。

 あっという間の出来事であったが、このことは会社の人には内緒にしておこうと約束した。なにしろ彼女は入社してまだ4か月も経っていない。

 それにしても彼女の行動も電光石火だった。初デートから3週間の間、ボクも家では結婚したい女性がいることをほのめかしたが、彼女も同様だったようだ。うるさ型の祖母やおじさん連中を説得したらしい。同じ熊本県人ということが切り札だったようだ。

亡妻の叫び声


 彼女の家は目白にあったが、地域では目白小町と言われていたことをのちに仄聞した。ボクには過ぎたる女性だったが、彼女が逝ってもう23年になる。

 彼女のことを考えると「やっぱり見た目が9割」ということはうそではないと思い、セレンディピティは大切にしなければならないと痛感する。

 ボクの場合、「死に直面した」という言葉は適当ではないかもしれないが、病室で体調不全、喜怒哀楽なき体を横たえていると、人生を振り返ることが多い。

「若いころもう少し健康管理のことを真剣に考えればよかった」と思う反面、「亡妻との楽しい思い出」が次から次に沸いてきた。

 その亡妻が逝ったときの喪失感が尋常でなく、彼女の弟さんから「お義兄さん、あんまり落ち込まないでください」と言われた言葉が鮮明に蘇ってくる。

 こうして亡妻のことを考えているうちに眠ったらしく、亡妻は闇の中に消えていったが、突然彼女の声を聞いた。正確には聞いたような気がした。「まだ来ちゃダメ」と叫んでいるのである。

夢かうつつか幻か。啓示とはそう言うものである。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。





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