亡妻の叫び「まだ来ちゃダメ」[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第30話)]

木曽にはまる

 ぼやっとした意識の中で、ボクが見たのは大きな川の向こう岸で叫んでいる亡妻である。「まだ来ちゃダメ。やることがあるんでしょ」と聞こえる。相変わらず厳しいことを言う。  その川は三途の川ではない。奪衣婆(だつえば)や懸衣爺(けんえおう)らしいものは見当たらない。しかし、対岸には亡妻がいるのだから彼岸なのだろう。川は背景や風趣から考えると木曽福島辺りの木曽川のようだった。  ボクと亡妻はよく信州木曽を訪れた。そもそもは商品レポーターをしているときに、漆器産地の木曽平沢を訪ね、漆器工房の店主と気が合い、周辺を案内されてその土地柄に魅せられたことに始まる。  木曽は日本でも有数の漆器産地で漆の使用量は全国一であった。家具から什器まで日常使用に適したジャパン(漆器)を作っている。  車で行く場合、中央高速道路はまだ出来ていなかったので、甲州街道を下り、途中諏訪で味噌屋さんに寄る。この味噌屋さんも仕事を通じて知り合った。  塩尻から国道19号線を南下し、平沢に至り、町並み保存で有名な奈良井宿を過ぎ、太平洋・日本海の分水嶺・鳥居峠を越え、しばらく走ると宮の越という小さな町に着く。  そこのK旅館という民宿がボクらの定宿だった。ここを紹介してくれたのも木曽の木工品に携わっていた人だ。このあたりは木曽義仲ゆかりの地で、人情に篤い人たちだった。  K旅館を基点にボクらは島崎藤村の故地馬篭や妻籠、赤沢自然休養林、御嶽山などに足を延ばした。  旅館のおかみさんは料理が上手で、季節に合わせて山菜・キノコの天ぷらや渓流で獲れたアユやイワナの塩焼きなど野趣に富んだ料理を作ってくれた。塩を使わない「すんき」という菜っ葉の漬物も逸品だった。 「木曽路はすべて山の中である」というが、都会の喧騒を離れ、信州の山河を楽しんだ。檜、サワラなど木曽五木を産する土地だけに森林資源は豊かで、空気は清澄、水は美味しい。夜は星がたくさん見える。だから東大の天文台もある。

「肥後めっこす」

開田高原

開田高原は木曽馬が暮らす美しい高原。遠くは御嶽山。

中でもボクらがよく行ったのは開田高原である。御嶽山のすそ野に広がる美しい高原だが、木曽福島から飛騨の方へ向かうところにある。  開田高原の名物は蕎麦であり、木曽馬の里でもある。木曽馬は日本在来種の馬だが、本州では唯一の在来種である。なんとなく愛嬌がある。  亡妻は木曽馬を見て言った。 「木曽馬ってまあさんみたいだね」 「よく働くからね」 「そうじゃなくて、胴長短足のところがそっくりよ」  亡妻には口が悪いところもある。ボクが何かに執着してこだわると、「まあさんはやっぱり肥後もっこすだ」などとまぜっかえす。  肥後もっこすは悪い意味合いばかりではないのだが、どうしても「頑固で人の意見を聞き入れない」という文脈で彼女は使う。  こういう時、ボクは「君も相当肥後めっこすだ」とい言い返す。女だから「もっこす」ではかわいそうなので「めっこす」という。もちろん軽い合いの手で笑っておしまいである。

境峠と開田高原

 開田高原の先には乗鞍に抜ける境峠がある。境峠の先が女工哀史で有名な野麦峠である。  高原を一周して旅館に戻ると、「あんたたちは本当に開田高原が好きだね」とおかみさんが半ばあきれ顔でいう。ボクらはにやにや聞いている。  もちろん蕎麦も空気もうまいところだが、それより個人的な理由がある。境峠の下に広がる高原の名・「開田」という名は亡妻の旧姓なのである。  亡妻の「まだ来ちゃダメ」という声は開田高原の方から聞こえてきたようだった。  そういえばそのころ買ったサワラの寿司桶は今、連れ合いが大切に使っている。きれいに柾目が通っており、たがは竹ひごで編んである。  こうした寿司桶は今では殆ど目にしない。連れ合いは時々ボクを元気付けようとして、この寿司桶で五目寿司を作ってくれる。水気が適当に桶に吸収されてまことにうまい。 生ける現妻に支えられ、逝ける先妻を想う。幸せというべきか。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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