朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第6講 :自国民を犠牲にする王」
負担を強いられた高麗
文永の役(1274年)で高麗は約3万人を900隻の船を建造するのに強制労働させ、朝鮮人兵士5~6千人、水夫6~8千人が動員されます。これに、モンゴル人兵士、中国人兵士が加わり、全体で約4万の軍が編成されます。 弘安の役(1281年)では、高麗は各々、倍の人数を動員し、モンゴル人兵士、中国人兵士をあわせて、約14万の軍が編成されます。 高麗は莫大な物的、人的負担を負いましたが、忠烈王はこれを、フビライに自らの忠義を 売り込むチャンスと考えたのです。 労役につかされた朝鮮民衆は悲惨で、その窮状をフビライに訴えることも一時的にありましたが、忠烈王は自分の王位を守ることを優先し、自国民を犠牲にしました。女性も献上させられる
現代でいう「従軍慰安婦」を差し出しように要求されることもありました。『高麗史』には、元の使臣が度々、「高麗に駐在する元の役人や軍人に女を献上せよ」と命じたことが記述されています。 そして、忠烈王はこの命令に応えるため、監督官を派遣して、処女・美女を強制的に連行しました。また、処女を得るため、結婚を禁止する令を発布しています。 この時代の朝鮮の中国追従は後の時代に隆盛する儒学の「華夷思想」や「小中華思想」(第5章参照)によって裏付けされたものではなく、ひたすら弱い者が強い者にすがろうとした依存心によって、引き起こされたものです。 忠烈王という名は「忠義の烈(はげし)い王」という意味で元から諡されたものです。「祖」や「宗」という廟号が忠烈王に用いられなかったのは、元が高麗を独立国としてでなく、元の一部である諸侯国として扱ったからです。 フビライは1271年、国号を中国風の元として、 都を大都に定めました。文永の役の3年前のことです。 宇山卓栄(うやま たくえい) 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。ハッシュタグ
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