朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第7講:日本侵略を利用した高麗王」
忠烈王と元寇
忠烈王は剛腕で有能な人物でした。フビライの信頼を得て、自らの影響力を最大限、発揮しようと画策します。 1274年10月の文永の役で、元軍・高麗軍は対馬・壱岐を侵略し、博多に上陸しましたが、武士の抵抗があり、戦闘1日で撤退します。なぜ、すぐに撤退したのか、その理由はよくわかっていません。 元寇は2回とも暴風雨によって、元軍が被害受けたとされますが、第2回の弘安の役の時に暴風雨があったのは事実ですが、第1回の文永の役の時には、暴風雨はなかったとする見方が学界では有力視されています。「神風」に護られる「神国日本」というのはつくられたイメージに過ぎません。高麗を統治する忠烈王
忠烈王は文永の役の敗因を、モンゴル軍と高麗軍の指揮系統の未整備に伴う混乱と捉えました。 忠烈王はこれを是正するため、高麗軍の将軍をモンゴル軍の指揮系統の中の正式な指揮官(万戸職など)と認め、モンゴル正規軍としての役割を果たさせるべきことを上奏しています。忠烈王は高麗軍の地位向上を狙ったのです。フビライはこれを認めました。 さらに、忠烈王は高麗軍を一元的にコントロールするため、高麗軍統轄の権限を自分に与えてほしいと上奏します。フビライはこれも認め、忠烈王を「征東行省」の丞相に任命します。「征東行省」とは前述のように、モンゴルが設置した高麗統治府です。 「征東行省」の丞相は高麗の統治権を一切任されています。丞相となった忠烈王は自分の服臣たちを政治的要職に就け、また軍の指揮官たちを自ら選定し、事実上の王直属軍を編成します。 忠烈王は元王朝の日本侵略を自らの王権強化のための材料として最大限利用したのです。その意味において、忠烈王は政治的に大きな成果を挙げました。以後も朝鮮の王や為政者たちは忠烈王を模範として、「虎の威を借る狐」を演じていくことになります。 14世紀に編纂されたモンゴルの歴史書『集史』には以下のようにあります。 「(忠烈王)はフビライに寵愛された王と知られているが、実際には王ではなかった」 ラシード・ウッディーン『集史』、フビライ・ハン紀 宇山卓栄(うやま たくえい) 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。ハッシュタグ
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