朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第13講:事大主義とは何か?」
李成桂の台頭
高麗末期の親明派官僚たちは中国に媚びへつらい、売国的な行動によって、自らの利権を肥え太らせていました。この親明派に便乗したのが野心家の李成桂でした。 李成桂は遼東遠征を命じられた際、「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」と言いました。 これは『孟子』の「以小事大」からとったもので、大国の中国に事(つか)えることが肝要とする考え方で、「事大主義」とも呼ばれます。 李成桂の発言は親明派の文人官僚たちの意向を汲んだ忖度でした。そして、クーデターによって、実権を握った李成桂は高麗王家一族を都から追放し、1392年に自ら王位に就き、李氏朝鮮を築きます。 日本は当時、室町時代の足利義満の治世の末期でした。都は開京(開城)から漢陽(現ソウル)へと遷都されます。1395年に漢陽を漢城と改称しました。中国への服属
李氏朝鮮は成立時から、中国の明王朝に服属しました。明の元号を使用し、明の官服や制度を導入しました。 李成桂は明に使者を送り、高麗に代わる新たな国号を決めて欲しいと依頼しました。自分たちで勝手に決めることはできないので、主たる明に決めて欲しいというのです。 世界史において、他国に自国の国号を決めてもらった国は李氏朝鮮だけです。 その際、「朝鮮」と「和寧」の二つの案を明に提案しています。「和寧」は李成桂の生地で、現在の北朝鮮東北部の咸鏡南道の金野郡でかつて永興郡と呼ばれてところを指します。 「和寧」は本命案の「朝鮮」に対する当て馬候補の案であったと思われます。 明の朱元璋は「朝鮮」を使うよう、沙汰を下しました。 宇山卓栄(うやま たくえい) 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。ハッシュタグ
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