世界文化遺産から読み解く世界史【第61回:皇帝の絶大な力――始皇帝陵】
始皇帝陵とは
中国は独特の文化を持っているといわれますが、そこには現代でも56の民族が暮らしていることからわかるように、多くの民族の出入りがあって、漢民族の文化が一つに固まっているわけではないのです。広い中国の領域の中で、さまざまな民族、文化が重なり合い、争い合っているということです。 中国を最初に統一したのは、秦の始皇帝でした。その文化は始皇帝陵や兵馬俑坑など、そのお墓によって世界文化遺産になっています。 始皇帝陵は西安市から30キロメートルほどのところにある大きな丘にあります。 中国では、儒教や道教などが紀元前6世紀から紀元前5世紀の時代に成立しました。これは、非常に国が乱れた時期に生まれてきた思想です。そうした戦乱の時代を経て、秦によって初めて中国が統一されたわけです。秦による中国統一というところで私たち日本人が注目すべき点は、漢民族の中央集権の象徴である皇帝のあり方が、日本の天皇のあり方とは違うということです。皇帝は血筋ではありません。権威ではなく権力そのものだったということです。つまり、権力を収奪できる者ならあらゆる人が皇帝になることができたということです。 こうした慣行は、易姓革命ということに象徴されているといっていいでしょう。中国独特の政治の転換の仕方があるわけです。しかし、この易姓革命の慣行こそが、文化の継続を常に拒んでいる、遮断しているといってもいいのです。ですから、中国悠久の歴史というようなことがいわれますが、時代ごとに、すべて違う文化を持っているというところに、また特色があるのです。 皇帝が血筋ではないために、ある民族が力を持ち、権力を握れば、その前の皇帝と何ら継続性がなくても皇帝になれるのです。これは大陸の性格でもあるのですが、いろいろな民族が地続きの中で交流し、侵略し合っているという、そういうことにも関わっているのです。 始皇帝は非常に大きな力を持っていました。そのことは兵馬俑を見るとよくわかります。軍隊の強さがいかに始皇帝の中央集権的な文化を支えたかということがわかるわけです。 始皇帝はその強力な権力によって、行政面でも過去の封建制を廃止して、中央から派遣した役人に地方を治めさせたり、文字や度量衡、通貨などを統一したりしました。 始皇帝の業績の中で注目すべきは、大規模な土木工事を行ったことです。それは万里の長城の建設の先駆けにもなりました。 秦の都は咸陽に置かれました。始皇帝はそこに阿房宮とよばれる宮殿をつくりました。また、驪山というところに自分の墓となる陵の造営を開始しました。始皇帝陵は、東京都の世田谷区とほぼ同じくらいの広さです。財宝で満たされたお墓のほかに、神殿や祭祀施設がつくられ、盗掘者を防ぐための仕掛け矢まで設置されました。まさに権力を象徴する大事業として始皇帝陵がつくられたのです。 また、始皇帝に関してよくいわれるのは、不老不死の薬を求めて、徐福という人物を周辺の国に派遣したということです。徐福が日本にもやってきたのではないかということで、日本各地に徐福伝説が残されています。不老不死を求めた始皇帝でしたが、50歳にも満たず紀元前210年に没してしまいました。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本文化のすごさがわかる日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』『日本国史』『日本が世界で輝く時代』ほか多数。ハッシュタグ
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