金正恩はなぜ叔父や兄を殺したのか

『北朝鮮を正しく理解するためのチュチェ思想入門』連載第10回 <文/篠原常一郎:元日本共産党国会議員秘書>

聖家族内の粛清

金正男が暗殺された現場であるKLIA2の出発ホール(2016年)(Wikipediaより)

 金正男について私が知っているところでは、北朝鮮が製作した自動小銃やロケット弾といった通常兵器の輸出を、マレーシア経由で世界に対して行う商社の運営をしていました。つまり、外貨稼ぎの仕事をやっていたのですが、一時、アメリカの経済制裁の対象に金正男の会社も入ってしまって、すってんてんになりそうになったときに助けたのが張成沢です。他の外交部の部署や、軍の金を回して何とか生活を助けたと言われています。こういう経緯から、この2人は割と近しい関係でした。  ところが金正日が急死して、金正恩が急遽、最高指導者を引き継ぎました。しかし北朝鮮の幹部は一回り以上年上の海千山千な人たちばかりです。金正恩は最高指導者を引き継いだとはいえ、非常に不安を感じていました。  そういった状況の中で張成沢が、金正恩委員長が行った現地指導に対して、覆すような指導を行ったことがありました。ある軍の監督下にある漁業企業が、実は軍の所属なのですが、張成沢が指揮している行政部というところに利益をほとんど吸い取られていたという時期があったのです。  2013年の話ですが、金正恩委員長が空軍部隊を視察した当時、食料問題で困っていました。軍隊の中にご飯はあるけど、おかずがない。 「おかずをどうやって確保するか、何か対策がないのか」 と金正恩委員長に言われたときに、空軍の司令官は、 「我々の基地の近くにある漁業企業を我々の管理下に入れていただければ、我々は独自に漁業振興も行って、中国などに海産物を売って外貨を稼いで、それで服飾品を買いたい。ぜひ、そういうふうに委員長の計らいでお願いできないでしょうか」 ということを陳情したのです。  まだ指導者になって2年ほどで、日が浅かった金正恩委員長は、「よし分かった」ということで、そういった命令を出しました。しかし、今度は行政部と癒着している漁業企業が、利権構造が全部壊れてしまうので困ったという話になりました。  張成沢はそういう状況を調整しようとして、「軍の側に利益を戻さないのはまずいだろう。だけど行政部から取り上げてしまうのもなんだから、私が話をしよう」ということを部下に話しました。  そうしたら、部下がそのことを言葉足らずに周囲に話したことで、金正恩に密告されてしまいます。しかも、張成沢とそいつらが陰謀を練って金正恩委員長の指導体制をひっくり返そうとしているという話にフレームアップしてしまった。これには、国家保衛部による金正恩に対するゴマスリも働いたと言われています。  それにびっくりした金正恩委員長は、最高会議に出ている折に、部下からまず処刑をしました。それもひどくむごたらしい処刑で、普通なら銃で撃って終わりのところを、高射機関砲で撃って本当に粉々に打ち砕くような、さらに打ち砕いた遺体を火炎放射器で焼くというような陰惨な処刑方法で、何人かをまず処刑しました。  引き続いて、張成沢氏が最高会議に出ている現場で、取り押さえたのです。張成沢は直ちに数日以内に即決裁判が行われて、死刑にされて、同じように高射機関砲でバラバラにされて殺されてしまいました。

北朝鮮の食糧事情

 北朝鮮の食糧事情の話が出たので、余談になりますが、私の経験をご紹介します。もう私は危ないから行きませんが、中国側から丹東とか中朝国境地帯に行った時、いろいろなことを観察できました。  北朝鮮の行政機関は必ず中国国境に商社を持っています。私もそういった人に何人か会いました。政府と関係なく勝手に貿易をやっています。中国側の役所とも癒着していて便宜を図ってあげる代わりに、情報を取っています。情報を買うのにソーセージとか使っているのです。  中国側の役人で、昔、日本に留学中に世話した人がいて、その人が地方の幹部で、2016年、朝鮮側の人たちに会わせてくれました。一緒に食事をしましたが、非常に面白い経験でした。そういう中に、帰国者の在日朝鮮人がいてびっくりしました。中央にいるより、国境地帯の方が結構お目こぼしが多いので、お金を稼いでも取り上げられたりしないそうです。「大変ですね、苦労したんですね」と話しました。  ああいう国は、社会システムがきちんと機能しておらず、その機能不全を穴埋めする部門がたくさんあり、そういう隙間で何とか生きている人は生き生きしています。  物資を闇市に流して、その上がりで軍の副食費を作る。軍隊だって上から来る予算だけでは食えないわけです。中国とのそういう闇取引に近い貿易をやってはじめて、兵隊に食事を食わせられるのだそうです。それ以外は、ジャガイモが現物支給されるだけらしいです。「ジャガイモしか食うものないの?」と聞いたら、「そうだ」と言っていました。肉も食いたい、卵も食いたい、野菜も食いたいなら、そうするしかない。生々しい話です。

兄・金正男を暗殺

 ところで、2017年に金正恩が金正男を暗殺したのは、母の血筋の違いをしっかりさせたかったからという側面があります。血筋は金正男の母の方が正しいですから。前述の太永浩氏が『三階書記室の暗号 北朝鮮外交秘録』で書いていますが、金正恩は朝鮮では本来あってはならない「妾腹【めかけばら】」でした。しかも金正恩の母の高英姫は在日朝鮮人です。  だから、金正恩と母の高英姫だけは、祖父つまり金日成との記念写真がありませんでした。しかもそれがなかった原因として、金正恩が金日成に会うのを張成沢が邪魔したという事実がありました。金正恩はそれをずっと恨みに思っていました。  本来、親戚筋まで全部、家系や血筋を大事にするというのがチュチェ思想の特徴です。だから、粛清の場合はその逆で、張成沢の家系の人間も全部引っ張り出して、良くて強制収容所送り、悪いと連座して処刑ということになりました。小さな子供まで容赦なくそういう措置が行われました。行政部は全滅だと言っています。それと軍の一部含め、総計1万人が処刑、粛清されています。  こういうことが行われているのは、恐らくポルポト時代のカンボジア以来、前代未聞の話だと思います。21世紀でこんな大きな粛清が行われた例は他にありません。こんな陰惨なことが「聖家族」の周辺でも行われてしまうことを考えると、チュチェ思想とはまったく絶望的な思想と言わざるを得ません。  張成沢の死により、金正男は後ろ盾を失ってしまいました。張成沢が処刑されたのは2013年12月12日ですが、約3年後の2017年2月13日に金正男は暗殺されました。金正男は、独自に外国貿易の経験も積んでいたので、マカオとマレーシアの間を行ったり来たりして、貿易の事業に取り組んでいる矢先のことでした。マレーシアのクアラルンプール国際空港で、VXガスを顔に塗り付けられるという手口です。マレーシア警察の調べで、北朝鮮の外交筋も含めた、北朝鮮エージェントが裏で動かして、外国人女性にやらせたということを明らかにしています。  金正恩も常に疑心暗鬼なのでしょう。だから金正男暗殺を考えました。革命的血統で言えば金正男の方が正統派なのです。やはり生かしておいてはマズイなという話になったのでしょう。  逆に、自由朝鮮のグループは金正男の息子を、絶対に北朝鮮に触らせないようにアメリカと一緒にかくまっています。そういう点で文字通り血なまぐさい。

止められない北朝鮮のシステム

 ところで、何度か取り上げている『三階書記室の暗号 北朝鮮外交秘録』』という本の「三階書記室」というのは、北朝鮮で一番優秀な若手の役人を集めて、お金のことから何から、政策もスピーチも全部作らせている組織で、その部屋が実質的な支配者になっているのです。三階書記室が一生懸命蓄積したデータを聖家族へ提供して、それを身に付けてもらう。そのようにシステム化されているのです。  この本には、「責任が重いから磨かれる」と書いてありました。命がかかっているからです。あと、日本の役所は3年ぐらいで人事異動がありますが、北朝鮮は動かしません。だから、ずっと一つの分野を深めていく、極めていくことができるわけです。北朝鮮の外交力の強さの源はここにあります。  一方で、こういう言い方をしたら責任免除論になるからよくないのですが、彼らは金正恩も含めて、人生を選択できたわけではないのです。彼は生まれた時から、あの立場でした。彼の運命は変えられない。首領と言いつつも、ある意味では国家の歯車なわけです。  北朝鮮のシステムは、システム全体が生命になるという感じですが、昔の発展途上だった時は、金日成でも運営できたのでしょう。政策の間違いも多くて、飢え死にもいっぱい出ましたが。  しかし今は、1人の独裁者だけでは運営できません。だから、三階書記室という庁舎があるわけです。そこに一番優秀な若手の役人を集めて、実質的な指導実務をやらせています。実は金正恩というのはお飾りに過ぎない、という見方もできます。実に恐ろしい体制です。  そしてこのシステムを止めることはできないでしょう。このシステムを止めようとしたら、その人は殺されてしまい、新しい人が立てられるだけです。本当に不幸再生産体制です。  だから日本側がその辺の本質に気が付かないといけません。そしてどうやっていくかということを考えなければならない。日本側は、一つはそれに従ってしまう人の問題もあるけど、今まで日本の政府、いや政府だけではなく言論界も軽視してきたのではないかと私は考えています。

命が鴻毛より軽いチュチェ思想

 チュチェ思想では「人間にとっては肉体的生命よりも政治的生命が大事だ」と説いています。それは北朝鮮の体制維持のためには自分の命はもちろん、他者の命まで鴻毛のごとく扱う行動原理が導き出すからです。「全社会のチュチェ化」を「首領」が提唱することは「チュチェ思想を仰ぎ奉らない者」の排除となり、粛清の正当化につながっています。  本来だったら、金正男は革命的血統の中で血を継いでいく立場にある人でした。今の金正恩政権とは、金正日が複数の女性との関係の中でできた子供たちによる陰惨な後継争いが大本にあります。  ところで私の共産党の先輩で作家の萩原遼氏は、「金日成も金正日に殺された」という説を唱えています。金日成が亡くなる前に、2人はケンカしていたというのがその根拠のようです。  驚くべきは、このような政権を、日本において、あるいは韓国において礼賛し、北朝鮮を世界とアジアの政治的、あるいは思想的な最高指導者として仰いで運動を行なっている人々がいるということです。彼らは、人権の「じ」の字もないようなチュチェ思想を信奉している一方で、人権や先住民族の権利を守れなどと全く一貫性のない主張をしているのです。それについては、今後述べていきたいと思います。 【篠原常一郎(しのはらじょういちろう)】 元日本共産党国会議員秘書。1960年東京都生まれ。立教大学文学部教育学科卒業。公立小学校の非常勤教員を経て、日本共産党専従に。筆坂秀世参議院議員の公設秘書を務めた他、民主党政権期は同党衆議院議員の政策秘書を務めた。軍事、安全保障問題やチュチェ思想に関する執筆・講演活動を行っている。著書に『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(岩田温氏との共著、育鵬社)、『日本共産党 噂の真相』(育鵬社)など。YouTubeで「古是三春(ふるぜみつはる)チャンネル」開局中。
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