韓国で金一族を崇拝するチュサッパ(主思派)たち

『北朝鮮を正しく理解するためのチュチェ思想入門』連載第11回 <文/篠原常一郎:元日本共産党国会議員秘書>

「チュサッパ(主思派)」とは何か

 韓国にもチュチェ思想を信奉する人たちがいて、彼らのことは「チュサッパ(主思派)」と称します。朝鮮半島に住む朝鮮民族は南北で韓国と北朝鮮に分断されています。同じ民族が分断されて、それぞれに国家を作っているわけです。北朝鮮および韓国の人たちの悲願は、分断国家が統一されて一つの国家になることで、これは国是にもなっています。  チュチェ思想とは、同一民族の間での自主化、いわゆる民族がアイデンティティを確立していくことを重視する思想ですから、国家の統一は下げられない目標となっています。  韓国の政権に対しては、以前から反体制運動がありましたが、そこには常に北朝鮮からの工作が陰をちらつかせています。  本項では、韓国でチュチェ思想が盛り上がっていく経緯を述べていきたいと思います。

韓国大統領とチュサッパ(主思派)

 李承晩【イスンマン】政権が終わった1960年以降、軍事クーデターが相次ぎましたが、第5代から第9代の大統領で、当時は韓国国軍の陸軍少将だった朴正煕【パクチョンヒ】は、1961年に軍事クーデターを起こして政権を奪取し、国家再建最高会議議長に就任しています。  彼はクーデター・グループのリーダーでした。この時の政権を「維新政権」と言います。彼が大統領に就任したのはその2年後です。朴正煕は、現在、逮捕・収監されている第18代大統領の朴槿恵【パククネ】のお父さんです。  朴正煕の維新政権を引き継いだのが、第11、12代大統領の全斗煥【チョンドゥファン】です。彼も軍人であり、1970年代から1980年代にかけては、全斗煥政権に対する反体制運動が激しく戦われていました。  この反体制運動の思想的な柱とされたのがチュチェ思想でした。チュチェ思想は韓国の政権に対峙する思想として北朝鮮から持ち込まれ、学生活動家の間で普及したのです。  2003年に、廬武鉉【ノムヒョン】が第16代大統領に就任しますが、彼はこの時に学生運動をしていた世代です。そして現政権である第19代大統領の文在寅【ムンジェイン】の先輩弁護士であり、文在寅は廬武鉉が大統領になった時に首席秘書官を2回やっています。文在寅はチュチェ思想派ですが、盧武鉉もその可能性が高いと言えるでしょう。

文在寅大統領と同期の弁護士だった前ソウル市長

 またソウル特別市長だった朴元淳【パクウォンスン】も、1970年代後半に学生運動に取り組んでいました。彼も弁護士で、文在寅の司法修習からの同期生でした。左派系与党「共に民主党」に所属し、左派の市民団体「参与連帯」の創設にも関わりました。2011年のソウル市長補欠選挙で初当選し、18年には3選を果たし、次期大統領選の有力候補の1人として名前が挙がっていました。

前ソウル市長の朴元淳

 また、朴元淳は反日的な言動で知られ、フェミニストを自称し、慰安婦問題では一貫して日本政府の対応を批判し、在任中には、日本大使館前で毎週開かれている日本政府への抗議集会に参加したこともあります。  しかし、朴元淳はソウル市長在任中の2020年7月9日、ソウル市内の山中で自殺しました。彼はソウル市庁に務めた自身の元秘書の女性から、セクハラを受けたとして前日の8日に告訴されていたのです。韓国メディアによれば、警察は朴氏への事情聴取を検討していたといいます。  話がそれましたが、韓国の司法界は日本とは少し事情が違っていて、一般的には判事や検事になってから弁護士になります。ところが、文在寅と朴元淳は初めから弁護士になっています。そういった人は、学生運動の時に暴れ過ぎて逮捕歴を持っていることが多い。  彼らは両者共、学生運動で捕まった経歴および大学からの追放歴があります。だから企業弁護士としてはなかなか雇ってもらえない。しかし、文在寅の場合は成績が首席だったので、就職は困りそうもなかった。ところが彼には理想があって、釡山で盧武鉉弁護士が労働運動や国家保安法に対応する事件をたくさん扱っているということを知って、盧武鉉に接近して、彼の事務所にイソ弁(居候弁護士)として勤めさせてもらいました。それから二人三脚で大統領秘書官までやりました。だから、扱った事件はほとんど、それこそチュチェ思想派がらみの事件ばかりでした。

「韓国チュチェ思想の父」金永煥

 1980年5月18日から27日にかけて、光州市(現:光州広域市)を舞台に光州【クァンジュ】事件が起こりました。軍事政権に対して反対する市民と学生の戦いで、学生と軍隊が衝突したくさんの人が亡くなりました。この時の政権は崔圭夏【チェギュハ】です。彼は同年8月に辞任し、翌月1日に韓国軍将軍だった全斗煥が統一主体国民会議代議員会で第11代大統領に選出されました。  80年代以降もその余波を引きずって、民主化に向けた学生運動が戦われ続けました。その中でまず、金永煥【キムヨンファン】という人を紹介しましょう。この人は1963年生まれですが、学生運動のリーダーであり「韓国チュチェ思想の父」と言われている人です。  金永煥は、チュチェ思想の普及と学生運動の組織に才能を発揮しました。当時、大学生がサークルを作ったら、その「裏のサークル」が必ずあったそうです。テニス部を作ったら「裏テニス部」も作るというように。 「裏のサークル」というのは非合法で、スポーツの愛好会のような名前を付けたり、文学の愛好会のような名前を付けていながら、チュチェ思想を勉強したりするところで、当時は多かったようです。だから、いずれのサークルにも入っていない、いわゆるノンポリで「帰宅部」みたいな学生や、図書館と家で勉強ばかりしている学生以外の活発な学生たちは、どうしても左派の活動にかかわりがちになる。そういう連中は多かれ少なかれ、チュチェ思想に触れてしまう。金永煥はそういうサークルを多数組織していました。  この人は金日成主席にも見込まれて、1991年には平壌に行って金日成に謁見しています。それ以前には、朝鮮労働党の秘密党員にもなっています。  金永煥は激しく活動的な人だったので、金日成に会った翌年には、非合法地下組織の共産主義政党「民族民主革命党(民革党)」という組織を作りました。また、それに基づいて「Revolutionary Organization(RO)」という地下組織も作った。その経歴がもとで、韓国で国家保安法違反で捕まっています。  その後、やはりちょっと革命色の強い「統合進歩党」という政党を作っています。左翼が統合した極左政党です。その党は何人かの国会議員を持ったんですが、反国家団体に認定されてしまいます。

統合進歩党と李石基

 もう一人、金永煥の後輩で同志の李石基【イソッキ】という人物を紹介しましょう。彼は1962年生まれで、統合進歩党に所属する国会議員だったのですが、この人を含めて逮捕されて、同党は朴槿恵政権の下で解散という目に遭いました。  ただし李石基は文在寅の働きで釈放されています。法務省の関係および市民運動の関係の窓口である民情首席秘書官がその恩赦を担当するのですが、その時の秘書官が文在寅でした。  李石基は若い時から逮捕されてばかりですが、その都度釈放されています。金大中【キムデジュン】政権の時も恩赦されました。  日本での学生運動は1970年には終わりますが、韓国の場合、学生運動が盛んだったのは1980年代で、つまり韓国のチュチェ思想派は、日本の学生運動の人たちよりもちょっと下の世代です。韓国ではこの世代のことを「86【ハチロク】世代」と呼んでいます。この世代は頭の中にチュチェ思想がキッチリ入っています。  文在寅は1975年に逮捕されているから古手の方です。彼はちょうどチュチェ思想が海外に積極的に広げられる時期の活動家です。  1990年代になると、この人の同僚や後輩らは、みんな成長して社会人になり、市民運動の活動家になったり労働運動の幹部になったりしています。この辺の人間関係は、よく見ておく必要があります。同志関係ではないかと私は思っています。  金永煥は、『韓国民主化から北朝鮮民主化へ―ある韓国人革命家の告白』(新幹社、2017)という本を書いており、日本でも出版されています。本書では、彼の生い立ちや運動の中でのチュチェ思想の役割が書かれています。  彼は現在、左に行き過ぎて一回りしてしまったのか、自由朝鮮運動というまるっきり北朝鮮に対立する運動をやっています。しかしそれでもチュチェ思想の哲学的な考え方が抜けず、未だに正しいと言っています。 【篠原常一郎(しのはらじょういちろう)】 元日本共産党国会議員秘書。1960年東京都生まれ。立教大学文学部教育学科卒業。公立小学校の非常勤教員を経て、日本共産党専従に。筆坂秀世参議院議員の公設秘書を務めた他、民主党政権期は同党衆議院議員の政策秘書を務めた。軍事、安全保障問題やチュチェ思想に関する執筆・講演活動を行っている。著書に『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(岩田温氏との共著、育鵬社)、『日本共産党 噂の真相』(育鵬社)など。YouTubeで「古是三春(ふるぜみつはる)チャンネル」開局中。
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