「相手がワルツを踊ればワルツを」 プロレスの名言を生んだ“リングの哲人”ニック・ボックウィンクル語録
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
元AWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルがさる11月14日、死去した。80歳だった。1934年12月6日、ミズーリ州セントルイス生まれ。本名ニコラス・ウォーレン・フランシス・ボックウィンクル。父親は1930年代から1950年代に活躍したプロレスラーのウォーレン・ボックウィンクルで、ニックは6歳から父親にレスリングの英才教育を受けた。
父ウォーレンは“鉄人”ルー・テーズの親友――年齢はウォーレンのほうが5歳年上――で、セントルイスの“ビジネスマンズ・ジム”のトレーニング仲間。ニックは赤ん坊のころにテーズに抱っこをしてもらい、テーズのドレスシャツにオシッコをひっかけたという“伝説”がある。ニックが15歳のときに経験した非公式のデビュー戦(1950年)の相手もテーズだった。
プロレスラーを父親に持つニックは、少年時代から何度も引っ越しを経験し、9年生(中学3年生)から12年生(高校3年生)の4年間にハイスクール6校を転々としたというが、ニック自身が“母校”と考えていたのはサンフランシスコの私立高校だった。
1953年、フットボール奨学金を取得してオクラホマ大学に進学したが、1年生のシーズンでヒザを故障して同大学を退学。翌年、ロサンゼルスのUCLAに転学し、同年、大学に籍を置いたままプロレスラーとしてデビューした。西海岸エリアでのルーキー時代はディック・ウォーレンというリングネームを名乗った。
AWA世界王者時代のニックは、典型的なダーティー・チャンピオン――反則負け、両者リングアウト、ノーコンテスト裁定などをくり返しながらベルトだけは防衛するヒールの世界チャンピオン――のイメージだったが、じつはデビューから約20年間は“栗色”の髪のベビーフェースのテクニシャンだった。
カリフォルニアからハワイ、再びカリフォルニア、オレゴン、カナダ、テキサス、フロリダ、ジョージアといったNWAテリトリーを転戦後、全盛期から円熟期のホームリングとなるAWA(本拠地はミネソタ州ミネアポリス)と契約したのは1970年12月。以後17年間、年齢にすると34歳から51歳まで、AWAのリングでメインイベンターの座をキープしつづけた。
AWAでは“金髪の爆撃機”レイ・スティーブンスとの名コンビでAWA世界タッグ王座を通算3回保持。1975年11月、セントポールでバーン・ガニアを下しAWA世界ヘビー級王座を獲得し、その後、1986年まで同王座を通算4回保持。日本における名勝負は、なんといってもジャンボ鶴田に敗れ“ニック・ベルト”を失った試合だろう(1984年=昭和59年2月22日、東京・蔵前国技館)。
ダーティー・チャンピオンといっても反則攻撃――レフェリーの目を盗んでの反則技、場外乱闘、凶器攻撃など――の限りを尽くすというタイプではなく、試合の組み立てそのものはひじょうにオーソドックスで、大技らしい大技をほとんど使わず、タイトルマッチではやられてる場面=ディフェンスのシーンが多かったため、どちらかといえば“つかみどころのないレスラー”という評価を受けていた時期もあった。
後年、ニック自身はみずからのレスリング・スタイルを「バディ・ロジャース、フレッド・ブラッシー、ディック・バイヤー(ザ・デストロイヤー)の3人からインスパイヤされた」と語っていた。フェイバリット技はパイルドライバー、足4の字固め、スリーパーホールドの3つだけで、これ以外の大技には手を出さなかった。
「人生でいちばん大切なものは友人との会話」が持論だったニックには「相手がワルツを踊ればワルツを、相手がジルバを踊ればジルバを」という名言があるが、もともとの英語のフレーズには“マストmust”(――でなければならない、――しなければならない)という助動詞が含まれていて、直訳は「相手がワルツしか踊れないならワルツを踊らなければならない。相手がジルバしか踊れないならジルバを踊らなければならない」になる。
ボキャブラリーが豊富で、ユーモアとウィットのセンスが抜群のニックの口から出てくるコメントは、そのすべてが“名言”“格言”だった。以下は、筆者の過去のインタビュー取材からの抜粋である。
1987年(昭和62年)9月のインタビュー「満52歳、キャリア38年の超ベテランが語ったレスリング・ビジネスの過去・現在・未来」からの引用。
――1985年(昭和60年)の『世界最強タッグ』以来、1年8か月ぶりの来日ということになりますが、あいかわらずお元気そうですね。いつまでも衰えを知らない肉体には、ただただ驚くばかりです。
ニック:いやー、見た目はそうかもしれんが、わたしだってもうかなり体にガタがきている。ワイフのダリーンがいったいいつになったらリタイアしてくれるのかって、しつこく問いつめるんだよ(笑)。まあ、わたしとしては、あと3年は現役でやっていく自信があるんだがね。来日前には2週間のオフを取ってきたから、体調はすこぶるいい。(中略)
――日本武道館での鶴田‐天龍戦はごらんになりましたか。
ニック:わたしだけでなく、スタン(・ハンセン)、スレーター(ディック・スレーター)、オースチン・アイドルら外国勢がみんなで通路の奥からあの試合を観ていた。それも食い入るようにね。うーん、じつにいい試合だった。エンジョイさせてもらったよ。
――アメリカ人レスラーは、ああいった日本人同士のメインイベントというものをどう受け止めているのですか?
ニック:わたしのように長いことこのビジネスにたずさわっている者には、やはり時代の流れをひしひしと感じる。わたしが初めて日本に来たのは1964年(昭和39年)。もう23年も前のことになるんだ。当時はジャパニーズ対ガイジンの試合がすべてだったし、わたしとしてはアメリカでやっているレスリングをそのまま日本に持ち込むことができた。しかし、いまは日本人のレスラーがそれぞれのパーソナリティー(個性)を出そうとしている。もちろん、これはいいことさ。アメリカでは、つねにアメリカ人対アメリカ人の試合が売りものになっているんだからね。テンルーとジャンボの闘いがメインイベントだということは、日本のプロレス界がそれだけレベルアップしていることの証明といっていいだろう。(中略)
長州力をリーダーとする旧ジャパン・プロレス・グリープの新日本プロレスへのUターン現象については、こう話していた。
ニック:オフィスとのトラブル、引き抜き、それからジャンプ(離脱)などを起こした選手は、それまでになかったパワーを手に入れることができる。だが、そういった事件によって得をするのは動いたレスラーだけではない。残された者も、同等かあるいはそれ以上の政治力を持つことができる。プロレスとは、つくづく複雑怪奇な生き物だという気がするね。わたしは物心ついたときから……そう、父親(ウォーレン・ボックウィンクル)が現役でリングに上がっていた時代からずっとプロレスと付き合ってきたが、それでもこの気持ちは変わらない。レスラーのなかには、20年も闘いつづけて、それでもプロレスという動物と仲よくなれない男だっている。
――おはなしがむずかしくなってきました。
ニック:ノー、ノー。むずかしいのはわたしのいっていることではなくて、プロレスそのものさ。シリアスでハードなレスリングをみせてもお客がまったく集まらないこともあれば、こんな茶番みたいなことをやったらイカンというような試合にワーッと人が群がったり、ベビーフェースとしてやっていたときは鳴かず飛ばずだった選手が、ヒールに転向したとたん人気者になってしまったりね。まったくもって、プロレスは気まぐれな生き物なのだ。わたしほどのベテランになっても、飼い慣らすのは容易なことではない(笑)。
――おっしゃってることは、なんとなくわかるような気がします。
ニック:そう願いたい(笑)。いずれにしても、この難解さがプロフェッショナル・レスリングのおもしろさだ。だから、いったんプロレスという職業を選んだ者は、もう抜け出すことができないのだ。一種のドラッグのようなものだね。プロレスラーは傑出したアスリートであると同時に、エンターテイナーでなければならないし、またリングを降りれば一流のビジネスマンでなければならない。このうちひとつでも欠けていたら、トップの座には立てない。
――キャリア38年ですか?
ニック:いまでは、もうトシをごまかす必要もなくなった。ことしの12月で53歳になる。この年齢までベストのコンディションを維持してこられたことを神に感謝したいし、また誇りに思っている。20代のレスラーでさえ、わたしと同じだけのスタミナを持っている者はそうざらにはいないはずだ。
――いささか失礼な質問になってしまいますが、あとどのくらい現役をつづけますか?
ニック:うーん、ケガをしたらいますぐにでもリングを降りることになるだろう。やはり、いちばん怖いのはケガだね。これは、いつもわたしの家族の心配ごとになっている。(中略)わたしは、バーン・ガニアのように盛大な引退試合をするつもりはない。気がついたらいなくなっていた、なんていうのが理想だね。しかし、再び大きなチャンスがまわってくるようだったら、もちろん、だれをさしおいてもわたしがそれを手に入れる。まわりの人間がやめろやめろとけしかけているうちは、絶対にやめない(笑)。
ニックが次に日本に来たのは1989年(平成元年)5月。全日本女子プロレスの長与千種の引退興行で、メインイベントにラインナップされたライオネス飛鳥対メドゥーサの特別レフェリーをつとめたときだった。ニックはこんなことを語っていた。
「最近、ミスター・ババのビジネスはどうなんだい? お客さんがよく入っている? うん、それはよかった。ミスター・イノキは東京ドームに5万人も集めたんだってね。UWFという独立グループがすごい人気らしいね。アキラ・マエダはどんなレスラー? 若くて強い? それはなによりだ」
「わたしが最後にリングに上がったのは87年の9月。そう、前回、オールジャパンに来たときのことさ。あれから1試合もしていない。ニューヨークでオールドタイマーたちを集めたバトルロイヤルがあったが、あれは数のうちには入れない。だって、ルー・テーズやパット・オコーナーと本気になって闘えるかい? そうだなあ、わたしはもう引退したことになるのかな」
それから1年後の1990年(平成2年)9月、ニックはアントニオ猪木のデビュー30周年“メモリアル・フェスティバルIN横浜アリーナ”のゲストとして、初めて新日本プロレスのリングに立った。これは親友でありマサ斎藤からのアプローチに応じてのものだった。
ニック:(アントニオ猪木とは)1970年(昭和45年)のタッグ・トーナメント(旧日本プロレス『第1回NWAタッグ・リーグ戦』)で闘っただけ。わたしがAWAのベルトを持っていた時代も、ミスター・イノキとわたしはおたがいにひじょうに遠いところに立っていた。同じ世界で生活していたにもかかわらず、交流はまったくなかった。ポリティカル(政治的)な理由からそうなったのだから、これは仕方がない。(中略)ファンが望んでいたとしても実現しない試合というものもある。それがまたプロレスリングのおもしろいところさ。
――先ほど、星野勘太郎と話し込んでいましたね。
ニック:そうなんだ。彼がなつかしそうな顔で話しかけてきてくれたんだ。わたしはビッグ・ジョン・クインとのコンビでイノキ&ホシノのチームと試合をしたのはもう20年もまえのことだ。それ以来、いちども会っていないのだから、よーく彼の顔をみるまではタッグ・リーグのことすら忘れかけていた。でも、はなしをしているうちに、彼はわたしにかけた技、わたしが彼に仕掛けた技など、あの日の情景がはっきりとよみがえってきた。20年もまえのことだよ。これだからプロレスリングから離れることができないのだ。レスラーはみんな、リングのなかでいっしょに歴史をつくっているんだ。
ニック:いまはリングを降りてホッとしたような気持ちが半分と、やはりタイツとシューズが恋しいような気持ちが半分。まるで恋人を想うときの青年のような気分だ。
そう語っていたニックは、2年後の1992年(平成4年)5月、UWFインターナショナルのリングでビル・ロビンソンとエキシビション・マッチをおこなった(5月8日=『旗揚げ1周年記念興行』横浜アリーナ)。これが生涯最後の試合だった。
引退後は“北国”ミネソタを離れ、気候のいいラスベガスに在住。最後の来日は2006年(平成18年)1月。ZERO1-MAXのリングで“ニック・モデル”のチャンピオンベルトを継承した世界ヘビー級選手権、大谷晋二郎対スティーブ・コリーノのタイトルマッチのウィットネスをつとめた。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第62回
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