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ビンス・マクマホン 世界征服と開拓のパラドックス――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第100話(最終話)>

ビンス・マクマホン 世界征服と開拓のパラドックス<第100話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100」第100話(最終話)は「ビンス・マクマホン 世界征服と開拓のパラドックス」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 ビンス・マクマホンは王様である。WWEを世界最大のプロレス団体に育てあげ、アメリカ国内の市場独占だけでなくレスリング・ビジネスのグローバリゼーションを実現させた。

 ビンスのトレードマークのヘアスタイルはポンパドゥールPompadourと呼ばれるもので、J・F・ケネディ大統領(のちのロナルド・レーガン大統領も)とジョン・ウエインが好んだ髪型として知られている。

 プロレスラーではバディ・ロジャース、フレッド・ブラッシー、ニック・ボックウィンクルなどがこのスタイルだった。ビンスのそれはスプレーでコチコチにしてあるため暴れても乱れない。

 祖父ロドリック“ジェス”マクマホンRodrick“Jess”McMahon、父ビンセント・ジェームズ・マクマホンVincent James McMahonもプロモーターで、ビンスはマクマホン・ファミリーの“三代目”にあたる。

 生まれながらのアッパー・ミドルクラスかというとそうではなくて、父ビンス・シニアが空軍に所属していた時代に生まれたビンスは、実母ヴィッキー・アスキューVicky Askewのもとで少年時代を“基地の町”ノースカロライナ州パインハーストで過ごした。

 父親ビンス・シニアに初めて会ったのは12歳のときで、ビンスはそのとき自分が“お金持ちの家の子”だったことをようやく知った。

 イースト・カロライナ大学で経営学を専攻したビンスは、1968年に大学を卒業と同時に幼なじみで大学の後輩だったリンダ・エドワーズと結婚。

 1971年に父ビンス・シニアの興行会社キャピタル・レスリング・コーポレーションのメイン州バンガー地区担当の営業チーフとなった。

 その後、TVアナウンサーのレイ・モーガンが退職すると、ビンス・シニアは息子ビンスを自社製作のテレビ番組のインタビュアーに抜てきした。

 ビンスはもともとはプロレスラー志望だったが、ビンス・シニアが「それだけはNO」と許可しなかったため、20代から趣味でボディービルをはじめた。ビンスがプロレスラーのような逆三角形の肉体をしているのはそのためである。

 ビンスは36歳のときに父親からキャピタル・レスリング・コーポレーションを買いとった(1982年6月)。ビンス・シニア(当時67歳)は譲渡という形ではなく、あくまでもビジネスとして息子に会社を売った。

 買収金額は35万ドル程度だったといわれている。ビンスは同社の3人の株主、フィル・ザッコー(フィラデルフィアのプロモーター)、ボブ・マレラ(ゴリラ・モンスーン)、アーノルド・スコーランからも全株式を買い上げ、オフィスをニューヨーク・ニューヨークからコネティカット州グリニッチ――のちに同州スタンフォードに移転――に移し、新会社タイタン・スポーツ社を設立した。

 ビンスはあるビジョンを持っていた。それはアメリカのプロレス界統一と世界征服というとてつもない野望だった。

 ビンス・シニアは複数プロモーターの自由競争市場だったニューヨークでただひとりマディソン・スクウェア・ガーデンの独占興行権を勝ちとったラツ腕プロモーターだったが、ビンスはニューヨークだけでなく全米マーケット制圧をもくろみ、約20年がかりでそれを実現させた。

 ビンス・シニアはビンス体制がスタートしてから2年後にこの世を去ったため(1984年5月27日)、息子のアメリカン・ドリームが現実となる場面を目撃できなかった。

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新世代のプロモーターとして新しいことにチャレンジしていった

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