スポーツ

柔道はそもそもスポーツなのか?それとも武道なのか?

武道とスポーツの認識のズレが生む問題

 それでは何故柔道が武道なのか、スポーツなのかという解釈の意思統一がなされないと不都合なのでしょうか?サイエンスライターの竹内薫さんは各人が当たり前だとする前提が食い違う「共約不可能性」が議論のズレを生むと指摘しています(99.9%は仮説 光文社新書 2006年2月)が、柔道を武道と思うかスポーツと思うかの「当たり前」の認識の違いによって同様の議論のズレが生じます。世間一般の方にはピンと来ないと思いますので、具体的な事例を基に説明したいと思います。  柔道を武道と捉えるか、スポーツと捉えるかの認識の違いによって、国際柔道史上、最も紛糾したのはカラー柔道衣問題です。1986年に欧州関係者(アントン・ヘーシンクIJF教育普及理事など)が、「テレビ映りが良く、観客に分かりやすい」というスポーツの見地から青色柔道衣の導入を提唱し、それに対して柔道宗主国の日本は、白い柔道衣は戦場に赴く際に鎧の下に身にまとう死装束の色であり、神聖な色であるという武道の見地(伝統文化の見地)からそれに反対しました。両者は一歩も譲らず、11年に及ぶ不毛の議論と対立を経て、結局97年のIJF総会でカラー柔道衣の採用が決定されましたが、この対立による労力を柔道の普及発展のために費やしていたら、IJFはもっと実のある活動を行うことができたはずです。  柔道を武道と捉えるか、スポーツと捉えるかの認識の違いは競技観にも大きな影響を与えています。スポーツはルールによってコントロールされますが、武道は現在においてもルールを超えた規範が重視されます。オリンピック競技である柔道は完全にルールの支配下にあるのですが、柔道の創始国である日本においては単純にルールでは割り切れない価値観がいまだに尊重されており、「正しい柔道」という言い方がそれを表しています。  柔道のような対面型スポーツにおいては相手の弱点を突いて攻めることが必要となりますので、競技の場ではルールを最大限に利用した戦い方が求められます。そのため柔道をスポーツと捉える諸外国ではルールの盲点のギリギリを突いた戦い方をする選手が多く見受けられます(最近は日本選手にも多いですが…)。社会学者の井上俊京都大学教授(当時)が「(スポーツの)ルールは『許容される不正』の限度や細目を定めているに過ぎない」(スポーツ文化を学ぶ人のために 世界思想社 1999年10月)と書いている通り、現代柔道は講道館柔道とは異なるスタイルの選手が共通ルールの舞台で「許容される不正」ギリギリの戦法で覇を競う「最大公約数的格闘技」へと変貌しています。この現象が横文字「JUDO」の実態です。  スポーツマーケティングの権威・広瀬一郎さんが「勝利を目指さないスポーツというのは、言語矛盾に等しい」(スポーツマンシップ立国論 小学館 2010年4月)と述べるように現代の競技柔道では勝利至上主義が蔓延しており、技術的な変質が顕著です。  社会経済学者の松原隆一郎東京大学教授は「勝利至上主義がはびこることで『技の本質』は追及しにくくなる」と語っており(武道を生きる NTT出版 2006年3月)、「組み手争いも掛け逃げもルールの中の進化」と指摘しています(ゴング格闘技 2012年11月号)。松原教授は自身のブログでも「ルールは本質を上回る」と書いており、ルールを変えない限りは何も解決しないことを示唆しています。  スポーツライターとして著名な玉木正之さんは「ポイントをリードした選手が、そのリードを守って逃げ切ろうとし、あらゆる手段を講じるのは、スポーツとして『正しい』行為といえる」(NHKテレビテキスト 歴史は眠らない 2010年8月)とスポーツ柔道のありようを論じています。  プロレス・格闘技の著書で知られる作家・柳澤健さんは「海外の選手はルール内であれば何をやってもいい。スポーツである以上、当然です。だが、日本の選手はルールに加え、講道館が唱える『正しい柔道』にも従わなければならない」(朝日新聞 2012年9月25日付)とズバリ問題点を看破しています。  一方、柔道を武道として、もしくは日本の伝統文化として捉えている人は先に述べた「正しい柔道」に拘ります。正しい柔道とは「武道の美学」に基づく観念です。  嘉納治五郎は「そういう規定(注・審判規程)によって勝負を決するということになると、自然、その規定になじむの弊として、勢い理想的の身体の姿勢とか、こなしとかいうことに遠ざかって来る原因をなすに至るのである」とし、「本当の方法にかなわない乱取がふえて来たのである」と審判規定に偏重した乱取りは「正しい柔道」から逸脱してしまう弊害があると諭しています(月刊武道 2003年3月号)。  日本合気道協会創設者で合気乱取り法を考案した富木謙治(1900-1979年)は、「日本武道は強さの反面『正しさ』と『美しさ』を備えていることが誇りであります」(体育としての合気道 稲門堂 1956年7月)と「正しさ」と「美しさ」を武道の特徴に挙げています。  柔道界きっての理論派で論文も多い野瀬清喜埼玉大学教授は「試合は教育の一環であり試合の中でも正しい柔道を普及させたいという武道の精神が残っている」(柔道の国際化と日本柔道の今後の課題 埼玉大学 1999年)と「正しい柔道」の気風が残存していることを報告しています。  寝技の達人として知られる元世界王者・柏崎克彦国際武道大学教授は「正しい柔道」という言葉が流布する現状において、「理屈の上では、JUDOのほうが技術的に上ではないかと思われる。(中略)正しい柔道うんぬんではなく、われわれが知っている柔道ではないというだけの話ではないか。(中略)柔道であれJUDOであれ、同じルールにのっとって行うわけで、正しいとか正しくないとか一概には言えない」と日本の正しい柔道観は間違いであると戒めています。  柔道界の「正しい柔道」に類する言葉は剣道では「正しい風」を重んじるという言い方がされ、大相撲では「ケレン味」のない取り口というコメントがよく聞かれます。いずれも正々堂々と戦う様を表しており、剣道や大相撲にもルール上は反則ではないのに禁忌される技や所作が存在することが知られています。  プロレスラーとして一世を風靡した後に大学教員へと転じた故・ジャンボ鶴田さんは柔道やレスリングが体重別・ポイント制により内容プロセスよりも結果に評価基準が移ってしまい、プロセスの魅力を失ってしまったことを嘆き、「スポーツの勝利至上主義、二流の芸術美」と批判しました(レッスル・カルチャー 岡井崇之編 風塵社 2010年1月)。鶴田さんの主張は「武道の美学」からではなく、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ―の「芸術性のないスポーツは二流」とする言説に影響を受けたものと思われます。  以上、柔道が武道なのか、スポーツなのかを各界の著名人、重鎮達のコメントをベースに論じてきました。柔道のアイデンティティは実はきちんと確立しておらず、様々な様相において齟齬が生じていることがご理解いただけたと思います。  私の個人的見解としては、もはや柔道は武道であると言い切るには無理があり、多くの識者が指摘するようにスポーツとしての道を歩むべきであると思っています。IJFは既に柔道を教育的スポーツと定義付けているのですから、日本の認識も「教育的スポーツ」で良いではないですか。  「柔道とは何ぞや」を定義付けることができるのは、柔道の家元・講道館しかありません。基本的な線引きをすると、国内では「武道・伝統文化としての柔道=講道館」、「競技スポーツとしての柔道=全日本柔道連盟」という職務分掌となります。そのため「柔道=スポーツ」と認めてしまうと、講道館にとっては死活問題となってしまいます。しかしながら、私は柔道界の再興のためには、講道館が「スポーツ宣言」をした上で民主的・開放的な組織に生まれ変わり、全柔連との役割分担を改めて検討するしかないと思っています。講道館の英断に期待します。 <文/磯部晃人 写真/SOPHOCO -santaorosia photographic collecti
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