スポーツ

ロナウドやジョコビッチに欠けているものは…U-12サッカーでの感動的な光景

ジョコビッチとマレーの不機嫌な握手

 こうした独りよがりなスタイルが他競技のトッププレイヤーにも共通している点が、今日のプロスポーツの悩みどころなのかもしれない。  現在テニスの世界ランク1位に君臨するノバク・ジョコビッチ。史上最強の呼び声も高く、6月に全仏オープンも制し生涯グランドスラムを達成した。

Novak Djokovic 2015(C) Zhukovsky

 だが、昨年の全豪オープン決勝で見せた姿勢に疑問を投げかけた記事がある。英『エコノミスト』誌が運営するサイト『1843』掲載の、「The real meaning of rivalry」。  寄稿したのは、元クリケット選手のエド・スミス。決勝戦後にアンディ・マレーと交わされた握手がいかにも不機嫌で、冷ややかだった理由を考察している。  第3セットの始め、明らかに不調な素振りを見せていたジョコビッチ。その姿に困惑し、集中を失ったマレー。  しかしそう思ったのもつかの間。ファイナルセットのジョコビッチは圧巻のプレーぶりだった。つまり、“試合巧者”のジョコビッチにしてやられたのだ。  納得のいかないマレーは、素直に勝者を称える気になれない。それが、後味の悪さとなってあらわれたのだ。  勝負事である以上、付け入る隙を与えたマレーも迂闊だっただろう。だが、そのようにして得られた勝利は、スポーツの発展に寄与しないというのがスミスの考えだ。

ライバルは単なる「敵」ではない

 もちろん、ライバル同士の激しい戦いを否定するのではない。だが、それも相手を騙したり、殺し合いになったりするまでの事態は想定していないのだ。その理由を、スミスはこう記している。 <競い合うということは、誤解されがちだ。ライバルは敵であるのと同時に、共に事を成す人物でもあるのだ。(中略)  事実、ラテン語が語源の“rival”と“compete”には、それぞれ次のような意味合いが含まれている。  “同じ流れを共有すること”(rivalis)や、“共に努力すること”や“共に調和へと向かっていくこと”(competens)である。> (訳:筆者)  根底には、勝敗以上に目的を共にする同志であるとの意識が本来備わっているはずであり、その方が単に相手を打ち負かすだけの人生よりも、心安らかになれるのだ。  ゆえに今回バルセロナ・インファンティルBが示した威厳は、とても本質的なものだったと言える。ロナウドやジョコビッチを観ても満たされない気持ちを、彼らのスマートな振る舞いが一瞬で満たしてくれたのだ。 <TEXT/石黒隆之>
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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